人生の意味を考える事例が、このところ幾つかあって、元々が人生は悲しいというベースが私のマインドの一部を形成している事も相まって、ひとことで言うと、ちんまりしている。



始まりは、三浦春馬さんの自死だった。
速報が流れたその日、『こんな夜更けにバナナかよ』と、『僕のいた時間』を全編見た。
ナイーブな役柄が、三浦春馬さん自身のナイーブさに重なって切なかった。
どちらも難病、前者は筋ジストロフィー、後者はASLが筋の根幹にある。



何日か、上記の事例にとらわれ鬱々としていたら、京都で安楽死を希望した難病の方を医師二人が希望に沿う形で自殺願望を叶え、逮捕される事件が起きた。NHKニュースで、その女性の在りし日の元気な笑顔の姿と、snsで使っていた画像が映された。アイコンを見て、思い当たるサイトがあった。私もフォローしていたアメブロの方だった。



その日のNHKニュースを見る限り、この件に関する有識者(大学教授だったと思う)は、安楽死に否定的なコメントを語っていた。
安楽死に反対する意見は紹介するが、安楽死を受け入れる生命倫理を持った有識者の意見は紹介しない。これでは、視聴者に問題提起されるはずがない。市井に議論喚起の余地が生まれようがない。マスメディアは、何の役にも立たない。



とどめは、親しくしていた近所のクリーニング店を営む独居男性が、亡くなっていた。無治療の癌を持っていたらしい。そんな事は、おくびにも感じさせない、元気な方だったが、救急搬送された病院で、4日後に還らぬ人となった。それを聞いたのが昨日だった。



比較的最近、実父を亡くした私は、父の死に目を目の当たりにして、生きるのも死ぬのも、なかなか一筋縄では行かないものだと、その様な感慨を深めていた。尊厳ある生、尊厳ある死。これらは、社会の精神的・物質的・経済的豊かさの結晶の結果だ。



何もかももっとあったら、人類の幸せ度はあがるのだろうけれど、所詮は無理な話だ。その中で、日本に一番足りないのは、おそらく精神的豊かさなんだろうと思う。



例えば、安楽死だ。
世論が高まらないと、議会は動かない。
議会が動かないと、法案の提出が出来ない。
現状、日本の医療は存命第一主義だから、安楽死について誰も声を上げる人がいない。
人々は日々の生活に手一杯だ。
かくして、話は始めに戻り、世論は高まらない。



京都に出かけた医師二人は、一般的な倫理観とは違う物を持っていた様だ。共著、一人は匿名でもう一人は実名で、生命倫理に関して、普通には受け入れられ難い題名の本を上梓している。優生主義を心棒しているかのタイトルだ。



私はかつて、人を殺してはいけない事に理由などないように、自死をしてはいけない事にも異論を挟む余地などないと考えていた。しかし、今は違う。死ぬ事で救われる魂があると考えている。自分の命は自分だけのものじゃないと、人は言う。
そうかもしれない。しかし、苦しむ自身の魂は、自身が救わないで誰が救ってくれるだろう。耐えがたい苦しさを誰が替わってくれるだろう。



例えば、呼吸器をつける事で救われる命はある。
しかし現状の日本では、一度着装した呼吸器は、誰も外せない。着装したが最後、後戻りの道はない。



もし、着装した後も選択枝が残されていたなら、呼吸器着装を選択する難病患者さんが、今より増えるのではないか?それは、現状のルールより幸せの幅をより広げるのではないか?そして、自らの意思で人生の幕を尊厳を持って引く事も、ずっと着装を希望し続ける事も、好きなタイミングで自身が選べる事に繋がり、それは魂の救済の最終形態なのではないか?と、考える様になった。



これらは、死にゆく大切な人を何人も見送ってきた、私の単なる思いでしかない。
しかし、今回の京都の件が一つの大切なきっかけとなり、世論が喚起されるならば、きっとその女性の魂や、在りし日の重ねた思考が、活かされると思う。



惜しむらくは、深い慈愛に満ちたマインドというよりは、優生主義が垣間みられる医師の手しか、叶う道がなかったことだろうと思う。