近頃の技術の発展はすごいですね。
特にスマートフォンやパソコンの進化は目を見張るほどです。

僕の記憶が正しければ、スマホが登場したのは高校生のころ。
当時は斬新な発明として注目されていましたが、新しいものに手を出すことに抵抗があり、僕が初めてスマホを手にしたのは大学1年生の終わりごろでした。
iPhone4が僕にとって初めてのスマホですが、このiPhone4と比べると今使用しているiPhone7は素晴らしいほど性能が上がっているし、今販売されている最新型のiPhoneはもっと性能が上がっていると聞きます。

このようにここ数年間でICT機器(情報通信機器)は大きく進化してきました。
それに伴って、子どもの生活も教育事情も変わってきたように思います。
同時に価値観も多様になってきているように感じています。

僕が中学生のころはガラケーでした。
携帯電話を持っていたのは、登下校中の緊急連絡や友人とのメールが目的で、インターネットを使ったりゲームをしたりするためではありませんでした。
インターネットもできたのですが、今みたいにサクサク動かなかったので、ほとんど使うことはありませんでした。

今はどちらかというと、インターネットやゲームをすることが目的で所有している人も増えてきているように思います。
現に、スマホをほしがる子どもたちの主な理由がそれだからです。
もちろん、連絡を取りあうことも理由には含まれているでしょうが…。

最近、外に出かけると子どもを落ち着かせるためにスマホで遊ばせている親を見かけます。
子どもが騒いだら周りに迷惑をかけてしまう、という親の心配も分かりますが、だからといって安易にスマホに飛びつくのはいかがなものか…という気持ちはあります。

また、スマホが登場したことで、子どもたちも簡単に情報にアクセスできるようになりました。
このことについてはメリットも考えられます。
例えば、昔だったら学校での学習やテレビ、ラジオなどからでしか知識を得ることができませんでした。
意欲のある子どもだったら本を読むという方法もあったでしょう。
今は、スマホが手元にあれば、すぐに調べることができます。
だから、今の子どもの方が知識量としては豊富だと思います。
また、確かなデータがあるわけではないのですが、聴覚障害者の言語力の向上にスマホが役立っている可能性も指摘できます。
さまざまな情報に触れるなかで読解力を身につけたり、友人とのやりとりを通して文法力を高めたりしていると推測されます。

ですが、僕はあまり好意的に受け止めていません。
手元にスマホさえあれば安易に情報を得ることができるということは、逆にいえば、自分自身が知識を持っていなくても困らないということです。
このことが子どもの学習意欲を低下させるのではないだろうか。
テストで良い点が取れるほど知識を持っていなくても、スマホが情報を得られるのだから、一生懸命覚える必要はない。
そう考える子がいてもおかしくありません。
もちろん、大学進学や単位取得のために本気で勉強する人は別ですが。
情報機器を使いこなすスキルには長けているけれど、知識がない、という人もいました。
いわゆる「教養」と言われていたものがおろそかになってくるのではないか、と思っています。

もう一つ考えられうる事態があります。
自由に情報にアクセスできるということは、自分の好きな情報だけを収集できるように取捨選択できるということです。
つまり、自分の知識が自分の好きなものに偏るということです。
そして、自分にとって都合の悪い情報はシャットアウトしてしまいます。
これは人間の心理がそうなっているからです。
スマホがあるおかげ(せい)で、頭の中を自分の好きなことに関する情報や都合の良い情報だけでいっぱいにすることができます。
だから、偏った価値観をもつ人も出てくるわけです。
自分の都合の悪い情報をシャットアウトするくせがついてしまうと、今度は他人の考えや価値観を受け入れにくくなります。
情報化には、こうした危険性もあるのです。

メディア・リテラシーというのは、メディアからの情報を吟味し、見極める能力のことを言い、自分の頭で考えることが求められますが、これを身につけさせるための指導の重要性が以前よりも増してきたのではないかと思います。

ICT機器の進化に伴って新しい課題が生じていますが、そのスピードがあまりにもめざましいぶん、教育の現場も苦労が多いものです。
ですが、この世界が競争原理で動いている限り、ICT機器はどんどん進化していきます。
それに伴って、さらに新たな課題も生じます。
大事なのは、そのときにどういう教育ができるか、を考えていくことではないでしょうか。