少し前に安楽死のドキュメンタリがあった。ネットニュースで概要を読んだ。

 

 

日本でも安楽死を、という声があるが、私は不賛成だ。

なぜなら日本は個人を尊重する社会になり切れていないから。集団で生きることを大切にするので、良い言い方では和を重視する社会だけれど、悪い言い方では(健康な、男性中心の)集団についていけない人は切り捨てられる社会なので。

 

 

スイスで安楽死がどう議論されているかまでは追えていないけれど、報道される安楽死のプロセスから言えば、それなりに自己決定が尊重されているようにも見える。(ざっと調べたところでは、無料のところもあるようで、実際に対象が自己決定できる人だけなのかどうかは不明。)

 

 

日本では、今の社会状況でもしも安楽死が導入されたら、きっと「○○患者は」「高齢者は」「非就業者は」…「安楽死せよ」、という言説が飛び交うだろう。そして、実際に、「家族に迷惑をかけたくないから」という理由で、本当は死にたくないのに安楽死を選ばざるを得ない患者・老人が相当数出てくると思う。

自己決定ではなく、社会に殺されるようなもので、そんな社会は恐ろしすぎる。

 

 

邪魔ものはよそに、という考えの一つの表れとして、今も、病院の一部は、いわゆる「姨捨山」になっている。

 

 

その背景には、集団についていけないものは切り捨てる、ということのほかに、ケア労働を家庭に押し付ける社会観が続いていることもあるだろう。家で担いきれない→家から出してしまう、という発想だ。

 

 

ちょっと議論がずれるけれど、私は在宅医療というものも懐疑的だ。

入院管理で行う医療の対象でない人について、苦しみを和らげるために必要な投薬と死亡診断を除けば、必要なのは医療よりもむしろ看護と介護によるケアのはず。投薬部分を看護師や薬剤師ができるようになれば、医師は不要ではないか。看護師や薬剤師に、終末期患者に対して麻薬や向精神薬を処方するための研修や資格を作ったうえで処方実態を管理し、死亡診断は近隣開業医に依頼すれば十分なのではないか。

 

 

医師の介入を喜ぶのは、結局、患者本人ではなくて、家族なのだ。そして、患者のためでない高い医療費が支払われる。終末期の患者を病院から自宅に移行させること自体は正しい流れだが、それが家族や社会の安心をエサに、患者への貢献がそれほどでもない医師の新しい金儲けの手段になるというのは、残念な話だと思う。

 

 

在宅医は、楽で儲かる、という話を何度か聞いたことがある。夜中の急変などに対応するのは結局訪問看護師だし、患者の死という終末期患者の一大事でさえ、在宅医は患者が夜中や明け方に亡くなったとしても、自分が死亡診断書を書いた時間が患者の死亡時刻になるので、駆け付ける必要がないのだそうだ。

 

 

安楽死よりも、日本の社会では、終末期のケアを医療から看護と介護にシフトさせる議論をもっと活発にするべきではないかな、と思う。患者中心の療養とは何かを考えたり、人間の尊厳や、個人を大切にする社会について議論するチャンスになると思うし、看護や介護の人間にとっての価値を広めて、ヘルスケア分野の構造を変えるきっかけにもなる重要な話ではないかと思うのだけれど。