久しぶりの更新。
何してたかっていうと、脚本家の学校行って、そこで会った仲間と脚本家集団「波図(Pazz)っていう団体を作りました。自分たちの書いた本を映像にしていこうってスタンスです。お見知り置きを。
さて、安室ちゃんが来年9月に引退を表明しましたね。このことから、夢を追い続けることいつ辞めんの?って話と、挫折とか、後悔とかって、そんなに悪いもんじゃないって話をしようと思います。どうかみなさんお付き合い。
さて、安室ちゃんが引退って、ほぼ同世代の僕にすりゃマジで大事件。ミサイルがいつ来るのか分からない情勢で、28日の衆院解散とか表明している現状でも、安室ちゃん特集ばっかりやってるメディアに「大丈夫か?!この国」という一抹の不安を感じますね。
反面、これが自分の飯の種になっているという事実に忸怩たる思いも感じるわけですが。
芸能生活25年ですって、安室ちゃん。25年前といえば、僕はまだ小学生。卒業文集の「将来の夢」で「考古学者かフリーター」と答えていた夢見がちだった僕はいまだ夢の中で。あのころずっと聴いてた、ストリートビーツの「十代の衝動」が血管の一部になっちゃってるわけで。
あの頃は、何者になるのだろうとワクワクしていたけど、25年たった今でも何者でもなく。今でこそ「物書き」になるための方向付けをしたが、それまでは疑問と不満、諦観を抱えながら日々を漂い続けて、現在にたどり着いたわけです。
僕の大好きな偉人のひとり、吉田松陰の逸話を紹介します。
「生涯に『二十一回』の『猛』を発する」
歴史小説家・司馬遼太郎が「世に棲む日日」で称した彼の性質は『狂』。ひとつのことに対して「狂える」ほどの情熱を注ぐことで、人を動かす『猛』を発せられるという意味ですね。
そのために松蔭は、生涯で一度も女性とも交わらず、自身のやりたい活動以外に浪費せず、桂小五郎や高杉晋作などの革命志士を育んだ「松下村塾」を立ち上げるわけです。
そんな松蔭は、教え子や同志に「諸君、狂いたまえ」と告げるのです。
安室ちゃんが凄いのって、自分を信じぬく自己愛性と、それを維持し続ける狂人な精神力と体力、結果が出るまで研鑽と反省を絶やさない執拗性じゃないかと個人的には思うわけです。衆人のための「安室奈美恵」を維持するために、「猛」を自らに発しているわけです。
『努力の人』なんて言葉で片付けられない、ある種の『狂人』なんでしょう。
一体どれほどの人間が、自分のやっていることに「狂える」のでしょうか?
恥や外聞をかなぐり捨て、批判や罵倒を一身に受け、不安を抱えながら孤独な道を本当に進み続けられるのでしょうか?
才能がある人なら何年か何十年、続くかもしれません。でもおそらく、多勢の人間が無理でしょう。
本当にやりたいことを「やる!」と言って飛び出しても、今まで露わにならなかった社会の残酷さに直面し、今まで自分が何かに守られていたことが露呈し、打ちのめされ、やりたかったことが蜃気楼のように消え去り、何かをやるわけでもなく、諦めるわけでもなく、言い訳をしながら日々を漂う中で、気づくのです。
夢を持って自分の「猛」を発して、意気揚々と道を歩みだした時、そこは間違いなく「point of no return(引き返せないところ)」だったんだと。
スタートラインは同時に引き返せない到達点にもなるのです。始まるとともに終わっていくんです。ずっと続く道なんてない。
一番難しいことは、終わりや区切りをつけること。終わりや区切りを付けないと、次に挑む気力って回復しないんです。きっと松蔭も安室ちゃんも、それを知っていたのでしょう。
物事にいちばん大事なことは「区切りと終わりをどこに置くのか?」ということだと思っています。好きなことをやっていても、惰性では意味がない。猛を発するために狂えなければ、何かを変えることも、人に何かを残すことも出来ないと思うのです。
そして人間は狂い続けられない。
この観点から、僕は今回の安室ちゃんの引退表明がマジで凄いと思うのです。山口百恵さんみたいに、気持ちを優先させての引退ではなく、衆人のための「安室奈美恵」に終わりを付けられる安室ちゃんの自己分析力と決断力に脱帽です。
挫折も後悔も諦めも、すべてが現状を見直すターニングポイント。
現状で出来ることに落ち着き、今やっていることを深化させることに腹をくくるのか、こんなもんじゃないと奮い立って、夢に向かって果断の努力を重ねていくのか。
はたまた、絶望を抱いて停滞し、すべてに呪詛と言い訳を吐きながら厭世的に生きるのか。
僕は好きで「物書き」の道を選びました。きちんと終わりを意識し、ある程度の区切りを自らの道に付けて邁進したいと思います。
今現在も「point of no return」だと思い、日々を傲ること無く邁進して生きていこうと戒める今日このごろ。
どんなドラマや映画よりも、現実に生きている人間のストーリーの方が面白い。そこにどんなフィクションを混ぜるのかが、作家としてのセンスだというポリシーを持っているのです。そのために行動をするのみ。
演出家としての技法を磨くなら映画などの作品を見たほうが良いのかもしれないけど、僕は物書きとして生きていきたい。
物書きのセンスを磨くのは、どれだけ好奇心を持って物事に接し、どんな角度で切り取っていくのか、そして、どれだけの作品を書いていくのかに尽きるのではないかと思うのです。
「作家なら言い訳しないで書け!完結しろ!そして否定されろ!」と思うわけです。がたがた言うのは批評家で充分。
僕のネタ探しのスタイルはフィールドワーク。
街を歩いて感じたことを調べて脚色したり、裁判傍聴で容疑者の主張を聴いて、勝手にその人たちの生立ちを描き下ろしてみたり。カフェやパチンコ、酒場などでの会話に耳を立ててみたり。簡単に言うと人間の悲喜こもごもにどんだけ触れられるかってのが大事ってことです。
今週やっていたことを完結に記せば、ホームレスの生活が知りたかったので実際にホームレスやってました。結論、彼らは村社会を形成していて、相互扶助の精神で生きており、案外不自由してなかったことが知れました。
饐えた体臭と食い物の臭いを漂わせながら、昔の武勇伝をつまみに酒を食らう諸先輩方の話に呵呵笑いしながら、真面目にバカなことをするのが後どれくらい許されるのだろうと感じた今日このごろ。神よ、どうか、私とワルツを。
では、また!