こんばんは。

日本人が学校では教えられない、本当の歴史について語る。

 

この言葉は、日中戦争(支那事変)に日本、主に大日本帝国陸軍において使われたフレーズだ。

 

昭和12年(1937)の中国軍による通州の日本居留民大虐殺、いわゆる「通州事件」です。

あれだけひどいことをされたら、やり返すのは当然ではないか、というのが一般的な考えでした。

 

通州事件 昭和12年(1937)7月29日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(冀東防共自治政府軍)が起こした大規模な日本人虐殺事件。

通州の日本軍守備隊と、日本人居留民(多数の婦女子と朝鮮人を含む)約106名が、人間とは思えぬような方法で中国兵によって惨殺され、シナに対する国民の怒りは頂点に達した。当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することはできない。

東京裁判において弁護団は、通州事件について外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長によって却下された。

この事件に触れると、シナ事変は日本ばかりが悪いと言えなくなってしまうという判断があったのは言うまでもない。

 

 

「暴戻支那ヲ膺懲ス」を略して四字熟語にしたものであり、意味は「残虐な支那を懲らしめよ」という意味となる。 
太平洋戦争開戦後は「鬼畜米英」が前置され、「鬼畜米英、暴支膺懲」となった。

 

現在の中国では今も、日露戦争当時からすでに、日本は中国をほろぼして大陸を我が物にする計画を立て、着々と対中侵略を進めてきた。

その過程に満洲事変があって、盧溝橋事件があり、そうして全面的な侵略が始まったと教えています。

 

盧溝橋事件 昭和12年(1937)7月7日の夜10時、蘆溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。

周囲に中国軍(国民政府軍)が駐屯していたから、彼らが発砲したのではと思われたので、日本軍は軍使を派遣することにした。翌八日の早朝4時、ふたたび日本軍に向けた発砲事件が起こり、状況が曖昧なまま、日中は戦闘状態に入った。

事件から4日目の7月11日に、事態収拾のため現地協定が成立した。

 

日本に侵略計画があったという話は、東京裁判のときに証拠として出された田中上奏文がもとになっている訳だが、実のところ、それは誰が書いたのかわからない。

 

しかも、その侵略を決めたという昭和2年の会議に、元老の山縣有朋も出席したことになっていが、大正11年に亡くなっている山縣有朋が出席できるわけがない。

 

戦勝国による一方的な裁判の一端が見えるだろう。

 

中国の教科書には、「田中上奏文」が必ず載っています。

逆に言うと、田中上奏文の存在がなければ、日本が侵略戦争を行ったと断罪することはかなり難しい、というより証拠がない。

 

「田中上奏文」が偽物だということがわかったにもかかわらず、それが世界に広まって、A級戦犯の最も大きな罪とされる「平和に対する罪」は、戦争を計画したということですが、その事実そのものもない。

 

中国では必ず言う、中華民国大総統袁世凱に日本政府が提出した「対華二十一カ条要求」、あれこそ日本の野望と野心の現れであり、侵略の第一歩だとね。

 

「対華二十一カ条要求」の内容のうち、14条までは、これまでの条約を守ってくれという当然の要求であり、最後の七カ条は、そのために日本の人材を積極的に登用して権利を認めてくれという希望をたしたものでした。

 

ですが、最後にはその部分をすべて削除して条約を結んでいる事実を教えない中国の教育。

 

「二十一カ条要求」を出した時期が第一次世界大戦のさなかだったのも日本にとってはマイナスの要因になった。

 

英米がヨーロッパの戦争で忙しい隙を狙ったかのような、ずるい印象を与えてしまったからだ。

 

日本のそういう判断ミスが、アメリカに利用された結果、中国の五四運動がはじまり、反日的な風潮が高まったわけです。

 

日露戦争前の満洲はロシア領になっていた事実と、その満洲を、日本は日露戦争でロシアを追い出して当時の清国、つまり中国に返した事実を歴史の真実通りに伝えていれば、いまのような日中関係になっていなかったかもしれない。

 

日本側は、その時にロシアが作った鉄道と、南満洲鉄道の権利、それから日清戦争で日本が得た東半島の租借権だけをもらった。

 

余談になるが、スターリンは昭和20年の8月に、これで「日露戦争の敵を討った」と言ったとう逸話が残っています。

 

張作霖爆死事件にしても、リットン調査団は「ミステリアスな事件である」と言っているだけで、日本軍が起こした事件だとは言っていない。

 

イギリスの諜報部は、爆発物の分析をし、火薬がソ連のものであると突き止めている。

 

リットン報告書を読めば、日本を一方的に断罪していないことはすぐわかるはずだが、それなのに、東京裁判以降、歴史的事実が塗り替えられて、どういうわけか、すべてが日本を断罪するものになってしまった上に、日本人は否定しようとしないままで現在に至っている。

 

戦前・戦中に反日運動とか左翼運動をやって帝国大学を追われた人たちや牢屋に引かれていってもおかしくなかった人たちが戦後、大学に復帰して東大や京大の総長・学部長におさまり、刑務所のかわりに学界とマスコミに集まっているのが今の日本だ。

みんな日本の敗戦によって利益を得た「敗戦利得者」達が戦後はさらに日本国内に入り込んで、日本の心まで潰そうと暗に活躍してきたわけだ。

 

誤った歴史観が70年たったいまも、大半の日本人の頭を占めているという現実に我々日本人気がつかないといけない。

 

サンフランシスコ講和条約で、東京裁判については白紙になったのだが、いまだにA級戦犯、B級等々言う人は歴史を勉強し直さないといけないですね。

 

日中戦争のきっかけとされるのが盧溝橋事件ですが、これによって、中国と日本はやむなく全面戦争に至ったわけで、盧溝橋事件がなければ中国共産党も蔣介石に全滅させられて、今日のような共産主義中国という化け物も生まれなかったかもしれません。

 

盧溝橋事件は一応、現地協定を結んで収まったが、およそ3週間後に先述の「通州事件」が起こって、シナに対する日本国民の怒りが爆発した。

 

それでもシナ政府が謝罪したために、まだ戦火は開かれていない。

通州事件は、民間人を含めた230人が虐殺されたわけで、あやまって住む問題ではないのだが、日本は我慢した。

 

本当にシナ事変がはじまったのは8月13日の中国側の上海攻撃(第二次上海事変)からです。

 

中国は民間人のいるホテルまで無差別爆撃を行い、日本は居留民を保護するために陸軍を派兵。

これに対して、約5万の大軍で攻撃してきた。

 

これが本当の日中戦争のはじまりであると、元米駐日大使のライシャワー教授も言っています。

 

つまり、戦争を始めたのは中国だというのが歴史的真実だということになる。

 

「暴支膺懲」(ぼうしようちょう)と言う言葉を知っている世代のひとも少ないし、語部もいなくなる。

そこで、機会があるごとに、正史を伝えていこうと思った次第です。。

 

 

ペタしてね