柳生・・何とも言えない響きだ。


宗矩は将軍家に仕えて超有名人だが、兵庫助を詳しく知っている人は少ないかもしれない。


個々の人物像を調べると、また奥が深く面白いのだが、個人的に好きな「兵庫助」に絞ってみた。




柳生兵庫助とは、新陰流の正統を継いだ新陰流三世にして柳生新陰流第三代、 尾張 柳生の祖だ。


柳生兵庫 助利厳は、石舟斎宗厳の嫡男、厳勝の次男、兄は朝鮮 で死亡した久三郎純厳、弟は伊達家兵法指南となる権右衛門。


父親(厳勝)が不具の身、若い頃、腰を銃で撃たれて半身不随に)であったこともあり、 利厳は剣を石舟斎直々に習う。


慶長八年(1603)、 叔父の宗矩が徳川秀忠 の剣術指南役を勤めている頃、加藤清正 に請われて、 五百石(内実は三千石とも)で加藤家へ仕官 した。


慶長九年(1604)には柳生庄で石舟斎より 新陰流の正統を継ぐための更なる鍛錬を積んでいた利厳に対し、石舟斎は新陰流の正統を継がせます。


石舟斎の死後、利厳はしばらく誰にも仕えず、剣の追求に励みます。

ここでは新陰流だけではなく、新当流の長刀や槍の習得もやっています。


そして元和元年(1615)、尾張家老 ・成瀬隼人正正典の推挙で 尾張 徳川家へ剣術指南役として五百石で仕えることになり、 ここに尾張 柳生が成立。


その後、「心法の江戸 柳生、刀法の尾張 柳生」と謳われた通り、 尾張 柳生はあくまで剣術としての新陰流を守り続けました。


その正統は現在、平成の世まで続いています。 現在の新陰流正統二十二世は、柳生新陰流第十六代でもある柳生耕一氏。


そんな利厳が新陰流三世として成しえた物事として、 新陰流の「沈なる身の兵法」から「直立たる身の兵法」への切り替えがあります。


戦場での剣(鎧を着けた場合の剣術・介者剣術)から、 平時の剣(素肌=平服時の剣術)への切り替えであり、戦場にて、重い鎧を着、鎧の隙間をつくことを前提にした剣術から、 平時・平服で斬り合うことを前提にした剣術へ対応できるように、 新陰流を改良したのです。


「兵法は時代によって、恒に新たなるべし」という流祖上泉秀綱以来の訓示が あったとはいえ、こういう大胆なことができた事が、 利厳が天才と呼ばれる所以のひとつであり、 また、「刀法の尾張 柳生」の面目躍如と言えるのではないでしょうか。


これ以降、新陰流の正統は、 尾張 徳川家の当主と尾張 柳生家の当主が交互に相伝 しあうという形式になり、正統を継いだのが、天才の名高い利厳の三男、 柳生厳包こと連也斎だ。


彼の母、お珠は、父が島左近 なので、 石舟斎の曾孫で島左近 の孫でもあるのです。


歴史物の本で「剣豪一覧」の類があった場合、 武蔵新撰組 の面々などと並んで、大抵、


 「柳生石舟斎宗厳」

 「柳生但馬守 宗矩」

 「柳生十兵衛 三厳」

 「柳生兵庫 助利厳」

 「柳生連也斎厳包」


 という名が柳生の中から挙げられます。


彼らは、それぞれ親子であったり従兄弟であったりと、 極めて近い血縁関係を持っています。


このような一族は、日本の剣術史を通じて、柳生以外に存在しません。