ピータードラッカー教授は「断絶の時代」の中で、若者は他人に操られることを嫌がるが、それ以上に意思決定の責任を負うことを恐れていると見抜きました。そして意思決定を避けることが正しかった試しはないと言います。大抵の人が、数年経ってからその間違いに気づき、失った時間の大切さを嘆くハメになるのですが、ドラッカー教授は、失ったものが時間だけならまだ幸運なほうだと述べています。責任を自由の証と理解し喜ぶか、責任を自分を縛る鎖と受け取り忌み嫌うか。同じ責任でも、どちらの受け取り方をするかで人生は天と地ほど違うということです。


操られるとは、他人の意思決定に従うことです。成果を出す人は自分で自分を操る、つまり自分の責任で意思決定し、行動しています。意思決定の責任を避けるということは、他人に操られることです。他人に操られるということは、自己操縦を放棄することなので必ず精神の具合が悪くなります。この論理は絶対理解しなければなりません。

責任が嫌だ嫌だと言い続ける人は、自己操縦感をどんどん失い、精神の具合がどんどん悪くなります。心理的に健全な成長発達を遂げた人にとって責任は自己操縦のエネルギー源です。人は、責任を背負う機会を与えられたことを喜び自己操縦感を向上させ続けるのです。こういうことを子どもに教えるのは親の役割です。その親が責任を避け、自己操縦感を失い情緒不安定で怒ったり泣いたりしているようでは話になりません。多くの親が子どもの問題を自分で解決できず、「どうしたらよいでしょうか」と他人に丸投げしますが、その行為は親としての責任放棄とも考えられます。しかしドラッカーが言うように意思決定の責任を放棄すると人生ろくなことがありません。理由はもうお分かりでしょう。自分と子どもの人生を他人に支配させることになるからです。