子どもだけでなく大人でさえ、喧嘩をした後でも、「おれは悪くない、悪いのは〇〇」と主張し、自分が悪くないなら自分から仲直りの行動をする必要はないという価値観を持ちがちです。実に見苦しい。息子たちも最初はそうでした。「喧嘩の原因を作ったのは○○だから、おれは悪くない!」などと言って自分から手を差し出すことを断固拒否していました。しかし夫はそれを許さず、

喧嘩が終わったのにどっちが悪いもないやろ。おまえはチンピラか(チンピラは自分が悪くても相手が悪いという論理を押し付けます)

と言ってたしなめていました。喧嘩は終わったのだから、次は互いに握手をして良好な関係を築けという理屈です。大人なら理解できる理屈でも、子どもは理解できず理不尽と受け取ります。しかし夫はその理不尽を水に流し、喧嘩相手と仲直りするため自分から手を差し出せと言い続けました。命令しても効果がないので「握手しに行くぞ」と息子と一緒に喧嘩相手の家に頭を下げに行っていました。こんな教育をわざわざしてくれる父親は今の時代そうそういません。しかし精神科医の私からすれば「自分が悪くなくても自分から握手するマインド」は後の人生に多大な恩恵をもたらすと考えます。教育は投資と言われる所以です。何故なら、これができずに「理不尽理不尽」と騒ぎ立て精神の具合を悪くする大人が実に多いからです。

自分が悪くなくても、自分が頭を下げることで喧嘩相手と良好な関係を築くことが出来るなら、自分から頭を下げた方が良いに決まっている。これは社会生活を円滑にする思考行動様式の極意です。夫は長いラグビー部生活を通じ、不仲が持続する不利益を知っていました。特に子どもは衝動性制御能力が未熟ですから、必ず喧嘩になります。衝動的衝突は直後なら関係修復可能ですが、放置すれば致命的決裂に発展する。社会生活においてはその方がよほど厄介で、喧嘩以上に嫌な気持ちを味わい続けることになります。こういう理屈は言葉で説明しても子どもには理解できません。なので夫は嫌がる息子を肩の上に乗せ、四の五の言わさず謝りに行きました。この程度の理不尽など、これからの人生、何度でもあるぞということを教えたかったのでしょう。