「鬱になったことのない医者になんか診て欲しくありません」「癌になったことのない医者になんか診て欲しくありません」という考え方がじわりじわり蔓延しつつあります。これ、私は非常に危険な思想と考えています。「わかって欲しい」人が増えまくり、「わかってもらえない私」を被害者とみなし「わかってくれない人」を悪者と敵視する考え方です。

かつて協調性がことさら重要視された時代がありました。その結果、膨大な数の「他人の目を病的に気にするあまり自分の意見も言えず、自分の生き方もできない」人間をを生み出しました。これと同じで、共感が大事と言われるようになり、次第に何でもかんでも「共感、共感」と言っているうちに、共感できない人は悪者、という思想を生み出したのです。非常に厄介な心理です。

「生きにくい生きにくい」と訴え精神科に訪れる人は増加の一途で、いよいよ私も開業せねばならないかなと思うほどです。その生きづらさの原因は、これもいろいろありますけれども、そのひとつは「他人の目」でした。ところが今、新たな刺客が登場しました。「共感してくれない人は思いやりのない人=悪者」という考え方です。

最近、とんでもないニュースを目にしました。皆さんはいかがお感じになりますでしょうか。とある公園の近隣住民が、その公園で遊ぶ子どもたちの歓声やフェンスにボールが当たる音に苦痛を感じると言って掲示した「野球やサッカーをやめてください」という張り紙が話題になりました。問題は最後の一文です。

人の痛みがわかる人になりましょう

これは非常にまずい。発言の主は子どもを完全に下に見ています。大人の言うことが問答無用に正しい、だからあんたたち子どもは言うことに従いなさい、と案に言っているようなものです。その証拠が最後の一文。この一文で、子どもは抵抗できなくなります。「あなたのため」と同じ呪いの言葉ですよ。何故なら「人の心の痛みを理解する」は現在、社会的価値観の王座に君臨しているからです。この価値観は絶対でこの言葉に抵抗できる人は誰もいないと思われている。だから彼らは使ったのです。こういう「人の痛みがわからない人間は悪者」という考え方は極端です。人の痛みがわかる人もいればわからない人もいるし、わかる程度もさまざまです。それを一様に「わかれ!」と言うのは強要に等しい。そもそもこの大人たちは子どもたちの心の痛みを全く考えていません。こんな大人に「心の痛みがわかる人になれ」というセリフを言う資格などないと思いますよ。被害者ぶるのもいい加減にしろと言いたいですね。最後の2行がなければまだ共感できようものですが。