「死に至る病とは、絶望のことである」と、哲学者キルケゴールは言いました。キルケゴールにとって、絶望とは、神を信じられないことでした。しかし今日「死に至る病」とは愛着障害にほかなりません。愛着障害とは、神どころか、親さえも信じられないことです。親を信じることができない。これ以上の不幸があるでしょうか。そんなとてつもない不幸が子どもの脳に及ぼす影響は当たり前ですが甚大です。

合理的な考えによれば、親の愛などなくても、適度な栄養と世話さえあれば、人は元気に生きていけるはずでした。しかしそこに致命的な誤算がありました。特別な存在との絆である「愛着という仕組み」がうまく働かないと、生存にも、種の保存にも、重大な支障が生じるのです。自傷や自殺企図を繰り返すのも、稼いだ金の大半を吐くための食品を買うためや、飲み代やホスト通いに費やすのも、物や金の管理ができず、捜し物と借金に追われ、混乱した人生に沈むのも、原因のよくわからない慢性の痛みや体の不調に苦しむのも……、そこには共通する原因があったのです。親さえも信じられない、という精神発達不全です。目が見えないと生活に支障をきたすように、親さえも信じられないというのは心の目が見えないのと同じです。他人を冷静に観察することや見極めることができず、生活のいたるところで次々支障が生じるようになる。つまり愛着障害は単に心の病で済まされることではないのです。

ネットインフラの成熟で愛着障害に関する記事や「愛着障害チェックテスト」なるものが氾濫し、「こんなに辛いのは、もしかしたら愛着障害かもしれない」と言って精神科に訪れる人が後を断ちません。しかし愛着障害はその名の通り親子の愛着に起因する障害なので、それから10年20年経った後に医療でどうにかできるものではありません。何人も過去に戻ることなどできないのです。治療法として「心の安全基地を作る」と提唱する医者がいますが、心の安全基地というものは幼少期にあって然るべきもので、それを土台に性格やら価値観が成長成熟し今に至るわけですから、大人になってから「取ってつけたように」安全基地を設けたところで大した効果は得られないでしょう。それどころか事態をより複雑にしてしまうリスクの方が大きいと私は考えます。結論を言えば愛着障害は現時点において確固たる治療法は存在せず、色んな医者が思い思いの治療を行っている「そういう状態」と理解するのが適切です。しかしいかなる場合も「話を聞いてもらう」ことが重要であることに変わりはありません。