「なるべく長く」ですか。そうですね、私はそう思いますね。ただし「あれもこれも」ではありません。私は息子たちに習い事ではなく逆立ちをやらせました。夫が逆立ちの名手なので、わざわざ誰かに教わりに行く必要はないし、逆立ちなら家の中でも庭でも公園でもどこでもできるからです。
逆立ちを通じて、体のどこをどのように動かせば上手くできるかを子どもなりに試行錯誤する脳を身につけて欲しかった。上手くできるようになるまでの過程に根気強く取り組める子になって欲しかったのです。何故ならその後にとても気持ちの良い瞬間が待っているからです。私自身19歳でサーフィンを始めた時、最初、ボードに立つことすらできない時期が長く続きました。周りの人が上手にスイスイ波に乗っているのを横目に、立とうとしてはドボン立とうとしてはドボンを繰り返していました。悪戦苦闘の最中、もちろん夫は何も教えてくれませんでした。海からあがりご飯を食べている時などにちょっとアドバイスをくれる程度。夫のこの姿勢は息子たちに対しても一貫していました。あまりごちゃごちゃ言わないんです。それでも続けていくうち、ある時から急に安定して立てるようになりました。ものすごく嬉しかった。自分でも何故立てるようになったかはわからないのですが、視線の方向や両足の位置、膝の曲げ方、お尻の位置などを「ああでもないこうでもない」と試行錯誤した末、理屈じゃなく体が「私のベストポジションを見つけた」という感じ。その感じが何とも不思議で、気持ちよかった。それを息子たちにも味わって貰いたかったのです。

続けることが目的ではありません。続けた先に「何かがわかる」「何かが見える」のです。強いて言えば続けている間ずっと、そういう予感がするのです。その「何か」は人ぞれぞれです。私が感じた「何か」と夫や息子たちが感じた「何か」は同じではないでしょう。でも皆、何かを感じたから、それが気持ちよく面白くてどんどん続けることになったのだと思います。これが齋藤孝先生のいう「上達の普遍的論理」です。本に書いてある通りだと思いましたね。

試行錯誤って面白い。それを私は算数や数学で既に知っていましたから、サーフィンでの試行錯誤も全然嫌ではありませんでした。最初はできなくて当たり前だと思っていたし、そのうちできるようになると思っていましたから。時間はどれだけかかるかわからないけれど、「(できるようになるのは)もしかしたら今日かも」と思い、毎回夫といそいそと海に出かけたのです。「もしかしたら今日上手くできるかも」「もしかしたら今日すごいライディングを決めることができるかも」あれから30年以上経つのに、この気持ちは失われずずっと続いています。それがほんの僅かの上達でも、それを気持ちいい面白いと感じる感性に磨きがかかっているのだと思います。同じことを長男はアメフトで次男はレスリングで夫はラグビーで、そういう感じを味わい続けている、だから続けているのではないでしょうか。