人間としての成長を願うのであれば、物事を部分的に見るのではなくその全体を捉えて見るために自分のエゴを、自己への執着を捨てなくてはなりません。この追求は人を、その態度、感情、知性、心理、精神面そして肉体面においてさえも完全に変えることを可能にします。ここでも「自我」の意味が、私たちの態度を決定づけます。金銭欲、傲慢さ、攻撃的な性格、欲望などは皆この貧弱な「自我」からくるものです。分かち合い、謙遜、和解、恩恵、これらは反対に成熟した「自我」、すなわち一歩引き下がった「自我」が作り出す状態を言います。ひとつの文化が貧弱になると、人を支配する関心ごとは利益、乱暴な競争、経済的帝国主義、極端な国粋主義、軍事的衝突、暴力と恐怖となっていきます。シンプルな生き方を願うことは、生活水準の向上を追い求めていくことよりもずっと大切なことです。しかしこれも自我を忘れた後にしか訪れません。そこで人生というものが知性を遥かに超越するものであることを理解し、私たちは現実を違った角度から認識するようになるのです。仏教徒の多くが透明感と穏やかさを身辺に漂わせていますが、それはモノに飛びついたり、機会をいち早くキャッチして利用したりせず、ガツガツしたこの世の日常をより静寂のうちに過ごすことを旨としているからなのです。彼らの生き方は、いわゆる生活水準の向上という概念からは遠くかけ離れたものなのです。