傲慢が人の心の内に築く壁は高く、自分の問題の解決策は実は自分の中にある、という最も簡単なことを受け入れ難くしています。自由はどのような物質的または客観的な条件にも従属しません。私たちはがんじがらめの拘束状態の中にいても自由を味わうことができる一方、幸福の絶頂にいながらも自由のない、囚われた気持ちになることもあるのです。でもそのためには社会的な個人のイメージに執着してはなりません。「自我」を忘れ、自分自身を追求していく精神を別なものに振り向けなくてはなりません。離脱に到達した人というのは、没個性とも呼べる個性を身につけると言われます。そういう人には一切打算がなく、自分の利益に全てを結びつけるようなこともしません。行いを阻む制約もなくなり、自由に自分の見解を述べることも、独自の存在に執着して生きることもこだわりなくできるのです。今という瞬間に私たちが抱く感覚、物事の捉え方、思考というものは、決して絶対的なものではありません。長年生きてきた中で培われてきた個人的な状況の積み重ねによる経験から出てくる、暫定的な判断に他ならないからです。ここで問題なのは、絶対的という意味で自分自身を放棄するという要求に応えることですが、それは個性を殺すということではなく、ただ私たちの身に起こるすべての出来事を根底で「自分とは無関係」と捉えることなのです。何かを好きになる、嫌いになる、、、これはすべて私たちが独自の物差しで測るものです。自分が正しくて他の人は間違っている、と信じるとはなんと身勝手なエゴイズムでしょう。この意識的または隠れた「自我」を、自分の様々な経験から取り除くのです。そうすると別の次元が見えてきます。