中学受験という子どもの発想では通用しない世界で、まず身につけていかねばならないのは「努力」です。どんなに生まれながらの才能を持っていたとしても、努力を重ねて経験値を積み重ねていかないと、大きな成果につながる成長はできません。目標に向けて向上心を持ちながら努力を続けられることは、大人になっても重要な能力となるのです。そんな重要な能力と言える「努力」を続けられるかどうかは、自分自身の甘えや怠心にどう向き合えるかにかかっています。ここで自分の弱さに打ち克つ心、すなわち「克己心」が問われるのです。

いかがでしょうか。希学園黒田先生の訓示です。令和の精神科外来で気になるのは「結果が保証されなければ努力なんかしたくない」と言う若者が増えていることです。彼らはとんだ思い違いをしています。結果は努力の後についてくるものであって、何もしないうちから約束されることなどあり得ません。ところが、結果ばかり気にする親や大人の教育を受けるうち、彼らは努力そのものより「親に認められる結果」を出すことばかり考えるようになってしまった。努力の過程を無視され、結果が悪ければ叱られ、否定され、辛い思いをする。そんな思いをするくらいなら努力なんかしたくないと考えるようになってしまったのです。一方、結果を出すためなら、どんな卑劣な手段を使っても構わないと考えるようにもなるのです。

努力なしで仕事はできません。社会適応も困難になります。何故なら、経済競争は年々熾烈さを増し、雇用条件や労働環境は厳しくなる一方だからです。会社は少ない労働力でより多くの利益を出そうとします。労働者ひとりひとりに課される仕事量は年々増加の一途。そんな労働環境で労働者は努力なしで仕事はできません。しかもその場合の努力は受験勉強と違い、ゴールのない努力をです。企業や組織で働くということはある意味、ずっと競争を強いられるということであり、ゴールのない努力を続けることです。

努力できる子どもに育つか否かは親のライフスタイルにかかっています。親が何かに努力する姿を日常的に見ることが、子どもの「努力心」の萌芽となります。我が家では夫が学生時代からずっと努力を継続し、ラグビーを引退してからも、変わらず努力を続けています。父親が懸命に努力する姿を来る日も来る日も目の当たりにしてきた息子たちは、「努力するのが当たり前」と認識するようになり、誰に強制されずとも自ら進んで努力をするようになりました。これは非常に重要な論理です。勉強習慣も努力習慣も、子どもは親の姿を見て学びます。親が勉強も努力もしていないのに、口先だけで「勉強しなさい」「努力しなさい」と言っても、努力する生々しい姿やムードを体感していない子どもが「努力の感じ」がさっぱりわからないのも無理はありません。