過剰な承認欲求がいかに厄介かは、既に多くの人がご存知でしょう。自分の人生を複雑にし、自分で自分の首を絞めるのですが、自分で自分の首を絞めるだけならまだ良くて、困るのは、親の承認欲求が子どもの首を絞めるケースです。堀江貴文氏がYouTubeの動画で、佐藤ママに対し「あの人のアイデンティティは東大理Ⅲだから」と揶揄していましたが、それはつまり「子どもを東大理Ⅲに合格させた、という功績がなければ他に何もない」という意味です。佐藤ママに限って言えば、堀江貴文氏の指摘は「全くの的外れ」と私は考えているのですが、親の存在が苦しいと訴え精神科に訪れる人たちに共通する被害者意識は「自分を親のアイデンティティに利用されている感」です。まるで親のために生きているような気がしてならない、そういう気持ちがいつまでたっても、40歳になっても50歳になっても拭い去れないと嘆いており、これはもう呪縛と言って良い状態です。

自分の承認欲求を満たしたいなら、子どもとは無関係に、自分が勉強して仮に1科目でも模擬試験を受けるとか、水泳の練習をひたすらして中高年の大会に出るとか、そういう健全な方法をとればいいのあって、それを子どもの人生に乗っかって、「息子を開成に合格させたこと」「娘を理Ⅲに合格させたこと」を唯一のアイデンティティにしてしまうと、当然それが言動や態度に出ますし、かつ、それにしがみつき続けますから、子どもは自分が頑張って合格したという意識が持てなくなってしまう。これが非常にまずいわけです。親に限らず、どんな人間関係でも「私が〇〇してあげたんだから」と恩着せがましく振る舞われるほどウザいものはないじゃないですか。その「恩着せがましさ」を、子どもは「恩着せがましい」と跳ね飛ばすことができないのです。その代わりに、自分が不十分だから、自分が至らないから、親がいないと独りでは何もできないんだ、、という奇妙で歪んだ意識を持つようになってしまう。これが厄介なのです。

ではそんなふうにならないようにするにはどうするか。

柳沢幸雄先生が本に書いているように、親は子どもが中学に入学したらとっとと子離れし、自分自身の生産的活動に本腰を入れればいいのです。本には大学院に入り直し博士号を取得した母親の例が書かれていましたが、別に勉強じゃなくても、水泳でもダンスでもサーフィンでもけん玉でも、何でもいいから、自分自身がそれにのめり込み、没頭することで、何らかの成果を自分で捥ぎ取るような生活にシフトすれば良いのです。思春期以降の子どもが欲しているのは、むしろ親のそういう姿です。親が子どもとは無関係に何かに没頭し打ち込む姿、そういう日常とでも言いましょうか。それが子どもの健全な人生観を形成する土壌になると私は考えます。