私は受験勉強を「ひとつのことに打ちこむ」ための「たくさんあるツールのうちのひとつ」と解釈しています。なので勉強に限らず、野球でも将棋でも片付けでも、テーマは何であっても、何かひとつのことに打ちこむという体験が人生には必要で、それがないと、のちに心身の健全な発達成長に支障を来すというふうに考えています。子どもは「ひとつのことに打ち込む」経験を通じ多くの能力やスキル、「気づき」を獲得します。それらは明治時代とは違う令和の問題山積超情報化社会を生き抜くのに必要なのです。

実際、情熱を注ぐテーマを持っている人が精神の具合を悪くすることは非常に少ない。打ちこむテーマが何も無い人や、一見打ち込んでいるように見え実は受け身でやっている人が、要らぬ不安に翻弄され、自己肯定できず、自責や他罰の中で精神の具合を悪くしていく現実を、毎日見ています。林修先生も同じことを冒頭に書いています。受験勉強でなくても、他に打ちこむことがあるのだったらいいんですと。

何かひとつのことに打ちこまないと、非常に骨が無い、基礎が欠けた人間になる可能性がある。ともかく16-18歳の時期の過ごし方というのがとても大事だと思います。結果はともかくも、自分がひとつのことにどれくらい打ちこめる人間なのかということに関しての、自信を得るための「制度のひとつ」として受験がある。と僕は考えているんです。

私は「ツールのひとつ」と表現しましたが、林修先生は「制度のひとつ」と表現しています。本の中で林修先生も強調していますが、受験が唯一の選択肢ではありません。打ちこむテーマが他にある人はそっちをやればいいのです。しかし、何もないというのなら、受験勉強をしてみたら?という話です。くれぐれも、受験勉強しかない、などということはない!ということは忘れないでください。何を選ぶかは親が決めることではなく、あくまで子どもが決めることです。親がすべきは、「ひとつのテーマにうちこむことの重要性」を子どもに伝えることの方です。できれば親が打ち込んでいる姿を子どもに見せる方が望ましい。親が打ち込んでいる姿というのは言葉や本に書かれた文字よりもはるかに強烈に子どもの脳に刺さるからです。夫婦でも夫の一生懸命な姿は胸を打ちます。ましてや子どもならその衝撃は大変なものでしょう。