「褒めること」をポリシーにしてそれを中心に教育してしまうと間違いが起きやすい。無意味に褒めたり無意味に肯定してもあまり意味がないと思います。特に良くないのは、早い段階で結果に基づいて褒めたり生まれ持った才能や見た目で褒めてしまうと、あまり良いことがない。アウトプットで褒められたり肯定されたりするとたまたま運がよかった人が褒められるという傾向になる。本人の意思や考えによって変えられるようなプロセスについて褒めたりプロセスを褒めることで肯定感を高めることが大事なのかなと思います。過去を褒めるというよりは未来に向けた頑張りを褒めることが大事です。過去はさらっと褒めるツールとして使って、未来に向けた行動をちょこっと誘導する、ひと突きするぐらいでいいんじゃないでしょうか。


成田奈緒子先生は「褒めるは難しいからしない方がいい」とすら言っていましたね。私も同感で、そんなに褒めてもね、という感じでした。反射的に出てくる「褒める」は仕方ないとして、それ以外のことについては佐藤ママじゃないですけど「やって当然だよね」という感じで、あまり「褒める」をしなかったように思います。一方、夫は「褒める」より「喜ぶ」でしたね。間違いなく。息子たちが高いところから勇気持って飛び降りることができた時とか、「偉いぞ」とかじゃなくて「やった!!!」と我ごとに様に喜んでいた。もしかしたら「これ」なんじゃないかなと私は思います。「褒める」じゃなくて「喜ぶ」じゃないかなと。しかしこれとて無意味に喜んでも仕方がないわけで、親の価値観に基づいて、それに沿った行動や言動を褒めたり喜んだりするモノなんじゃないかなと。だから「なんでも褒めればいい」というモノでないことは確かだと思います。

それより私自身が大事にしていたのは「尊敬」の気持ちです。夫に対しても松下先生に対しても、私が抱いている気持ちの大半は尊敬です。尊敬の気持ちって気持ちいいんですよね。「ああすごいなあ」「見習いたいなあ」という人がそばにいる生活って、すごくいい。それは息子たちに対しても同様で、夫が息子たちにガチで教えている様子を「よくこんな厳しい練習できるよね、私だったら泣いちゃうかも」という思いで見ていました。何しろ夫の関西弁は熱が入るとヤクザ風になってしまうので、流石に親子でもビビるんじゃないかなと。なので夫の指導が本格的になり始めた小学校以降、父親の指導を真っ向から受ける息子たちを見て尊敬の気持ちが芽生えた時はすごく嬉しかった。「ああ強い子に育ってるなあ、すごいなあ」と思いましたもん。なので私としては「褒める褒めない」より尊敬の気持ちを子どもに向ける方が自然だったんですね。褒めるなんて烏滸がましいという感じだったのかもしれません。