人間って蛸壺の中でその中のルールに従って悩みを深めちゃう生き物じゃないですか。エリートたちは受験戦争を繰り広げて有名とされる学校に入って人が羨むようなキャリアを歩んでいく、突き詰めると誰も興味持ってないんですけど、その
どうでもいい目標が自己目的化していって、その目標から少しでも外れると世界が終わるかのような恐怖感を勝手に作り出してしまうんですよね。
「そうじゃない世界があるんだよ」っていうことをできるだけ早い段階で体感させてあげるのが、教育の1個の役割であるべきなのかなと思います。

成田悠輔氏の動画です。冒頭が結論になっている潔い構成です。親の役割は「蛸壺」以外の世界があるんだよということを子どもに「できるだけ早い段階で」体感させてあげることと説いています。精神科医の私も全く同感です。生きる路線が「受験勉強と試験」だけということは絶対ないですから。ダメなのは、不勉強でモノを知らなすぎる親が「とりあえず皆がやってるから中学受験しておけば安心」的発想で子どもを蛸壺に投げ込んでしまうことです。「皆がやってるから」を発想や行動の起点にするからのちに精神の具合が悪くなる。何故なら、のちに子どもたちが目指すのは「皆と違う自分」だからです。SNSもそうですが就活にもなれば確実に「皆と違う自分」をアピールしなくてはならなくなるのに、起点の段階で「皆と同じ」にしてしまったら、そんなのうまくいくはずないに決まってます。おまけに「その価値観」から逃れることができなくなってしまうのですから。けれど企業が求めているのはそんなしょぼい脳みそじゃない。新しい価値を生み出す脳みそを求めている。そんな世界で生きるのに「とりあえず皆がやってるから」的起点で始まった人生は矛盾だらけになるので子どもをものすごく苦しめます。そういう子どもがOD(過量服薬)を繰り返し歌舞伎町に集まっているのです。

「へずまりゅう」や「ゆたぼん」をご存知ですか。彼らは当初「蛸壺」外という立ち位置で登場しました。だからめちゃくちゃ叩かれた。「ゆたぼん」は不登校を逆手に取り「学校じゃなくても勉強はできる、学校なんか行かなくていい」と言ったりしたから「蛸壺」内にいる多くの人たちから反感を買った。ところが今はどうでしょう。たくさんの人たちから支持されている。「バカな親に育てられたけど、俺は俺で生きていく」宣言をしたからです。時代のキーワードを巧みに利用し自分の人生を創出しています。「ゆたぼん」というワードで検索される自分をつくることに成功したわけです。おそらく賢い経営者は「ゆたぼん」を取り込みにかかるでしょう。似たり寄ったりのパッとしない大学生を採用するより自分の人生を自らコントロールし創出演出する「ゆたぼん」の方がよほど資本主義的価値があるからです。「へずまりゅう」も同様です。精神科医の私が評価したいのは彼らが打たれ強かったことです。そして実に色々なことにチャレンジしてきた。多くの人々が「バカなんじゃね?」と揶揄するようなことを愚直に行なってきた。裏を返せば多くの人々は彼らの行動を理解できなかったわけです。人というのは自分の理解できないことに抵抗し排除する生き物ですから「皆でディスって排除すればこわくない」的に呑気にネット上で叩きまくっていたのです。もうお分かりでしょう。彼らは「叩かれること」をエネルギーに換えただけでなくお金にも換えてしまったのです。