私の両親は父も母も、受験事には全く介入しませんでした。全く、です。「勉強しなさい」というセリフも一度もなかった。私が数学を得意と公言できるようになったのは、親が私の勉強に関わらなかったからです。私は自分の時間を自由に好きなだけ問題と取り組むのに使うことが出来ました。

中学受験では第一志望に不合格だった私は「ああ、落ちたんだ」と思ったくらいで、泣いて落ち込むなどということは全くありませんでした。何故なら、親が私の受験に全く関心がなく期待もされていなかったので。実際、私が不合格でも誰も悲しまなかったし何も変わらず、皆いつものように平然と夕食を食べ私の試験の話題など一切出ませんでした。ただし母親だけはにっこり笑って「残念だったね」と言ってくれました。何より私が「受かればいいかな」程度に思っていたので、当然落っこちる可能性も受け入れていました。

中高一貫の私立中学に入学してからも、親しくなった子はおおむね親が介入しない子ばかりでした。類は友を呼ぶのでしょうか。今思えば、そういう子は、親から強い介入を受ける子とは考え方や行動様式が違うので、もしかしたら混じり合わないのかもしれません。精神科医の視点で考察すると、親の介入を受けない子は、他者との距離の取り方が絶妙で、近すぎず遠すぎずの距離を互いに守り、変に踏み込んだりするようなことがなかったように思います。だから友達どうしの人間関係が複雑になることが無く、奇妙ないじめもなく、人間関係が面倒とか苦しいと感じることなど一度もありませんでした。

中学高校時代も親が「勉強しなさい」と言わない家は快適でした。放っておかれる心地よさを満喫していました。数学だけを勉強し、それ以外は教科とは無関係の本を読んでごろごろしていても何も言われませんでした。作家、山田詠美が表現するところの自堕落な生活だったと思います。おかげで中学時代の成績は中くらい。進学校の中では影の薄い存在でいられました。もちろん、そんな生活が心地よかったので何の不平不満もありませんでした。大して目立たず、これといった取り柄もない自分を否定することなく「のらりくらり」生活できたのです。