「子どもの不登校は親の責任か」問題です。高濱先生は「親の過保護過干渉は問題」とし、

安全イズムが蔓延り、近所の公園でも「あれだめこれダメ」と禁止事項ばかりが増え、好きなように遊べなくなってしまっている。本来子どもというのは「リスクをとって冒険のフィールドを広げる過程で自立の力を身につけていく」のに社会全体がそういうことをさせない許さないムードになっている

と述べ、大空氏は「親の心の余裕が子どもに影響する」とし、

親の心に「我が子が一歩たりともレールから外れたら取り返しがつかないことになるんじゃないか」という強迫観念に基づいた「失敗できない子育て」論という考え方が根強く取り憑き、社会全体が思い描いているステレオタイプの成功を子どもに押し付けてしまう。そういう親はとかく子どもの方ばかりを問題にしがちですが、そもそも「自分は本当に幸せなのか」という具合に自分自身の心に向き合い「自分を優先するということ」が大事で、親と子どもは別人格であることをしっかり認識しなければならない

と述べています。

親と子どもは別人格。佐藤ママも同様のことを言っていますね。大空氏は「負のサイクルから抜け出すには親も子どももあくまで他人、守るべきは親自身の心」とまとめ、高濱先生は「子どもが小さいときは家訓を設け「こうあるべきだ」と教え、子どもが大きくなるにつれ、親の弱いところ至らないところを曝け出していく、親の仮面を被らずありのままの自分で生きていく、自己犠牲しない、とまとめています。

子育てで問題となるのが比較思考です。比較思考は子育てを困難にするばかりでなく人生を不幸せになる原因のひとつなのですが、問題はその比較思考をどのようにしたら手放せるかということ。これについて高濱先生は「ここにあるもの(自分の持っているもの)で頑張るしかないと思うこと」「自分が何が好きかを大事にする」「俺はこれをやっている時は幸せと言い切れるものを持つ」「過去の自分より伸びたというのを評価基準にする」「自分の物差しで生きる」、、、これらをまず親が実践しなくてはならないと述べています。ところが今の社会では大人も子どももSNSを利用するようになり、簡単に他者と自分を比較するようになってしまった、SNSが人の比較思考を強化している、そしてそもそも人の生活の基盤となる経済社会自体が比較思考であるのに、家族内や子育てにおいてだけ比較思考を手放すことができるのかという問題を指摘しています。

今回の記事のタイトル「子どもの不登校は親の責任か」という件についてですが、子どもの不登校の唯一の原因が親であるという考え方は、私は違うと思います。こういう複雑な問題は原因がいくつもあるものです。大事なのは問題解決に向けどこから手をつけていくかということ。「親の責任」という表現はあまりよろしいとは思いませんが、高濱先生や大空氏が指摘するように「親側の問題」はさっさと手をつけていく方が賢明だと考えます。事態がより複雑となり手に負えなくなる前に、片付けられるところから片付けていく。実際の片付け同様、ある程度片付くと問題の中核がはっきりしてきますから、そうなったらそこに手をつけるという考え方が大事だと思うのです。いきなり唯一の正解を探さないということですね。