令和の今、「エリート」という言葉はもはや死語ではないか。「エリートってそもそも何?そんなもの本当にあるの?昭和の負の遺産なのでは?」と精神科医の私は考えています。エリートの辞書的な意味は「社会や集団の中で優秀とされる人間、もしくは指導的な役割を担う層のこと」ですが、多くの人がエリートという言葉を使用する時、そういう意味で使っていないように感じます。エリートイコール高学歴とか高学歴→有名企業といった意味で専ら使っている気がする。本来の意味と違う使われ方をしている言葉に有益性なんかないでしょうという話。そしてもう一つ、高学歴、高収入、有名、といったことが必ずしも「幸せ」とか「健康的」に繋がらない。エリートだからといって必ず幸せになるとは限らないということです。このように話がややこしくなるので、エリートなんて言葉はとっとと死語にした方が良いのでは、と思うのです。

私の患者で、私立御三家→東大→総合商社重役という、傍目には煌びやかな経歴の柴田さんは「ぼくはエリートでも何でもないですよ」とおっしゃっていました。エリートとは、もしかしたら当事者の認識とは無関係に、外野が「はやしたてる」ためのお祭り言葉かもしれません。教育産業が世間を「煽る」ための広告宣伝なのかも。令和の今、エリートという言葉が本来とは違う意味で使われ、世間的に「エリート」と見なされる当事者が「ぼくはエリートではありません」と言っている状況で「エリート」という言葉に有益性があるとは思え図、むしろ有害とさえ思います。

そう考えると、親が子どもを「なんでもいいからエリート(高学歴)にしたい」と考えるのは、甚だ時代不適応的価値観な気がします。柴田さんの例から見ても、絶対的安定的エリートなど存在しません。「東大法学部を首席で卒業」を冠する山口真由氏も、自身のことをエリートどころか「迷走している」と吐露しています。高い学歴や資格をどのように活用したら良いかわからなくなっている、ということです。

何でもいいから高学歴という考え方は、むしろその人の人生を複雑にしてしまうのではないでしょうか。少なくとも今や高学歴なら必ず幸せになれるということはありません。今後、どんどんその傾向は強まるでしょう。実際「高学歴ニート」は増加の一途です。これは山口真由氏と同様、高い学歴を自分の人生にどのように活用したら良いかわからない人が増えているということです。すると先日の堀江貴文氏の動画に有益性が出てくると思うのです。

勉強するのが良いという価値観で育っていると、その価値観から抜け出すのって相当きつい。(桜蔭中高→東大の学生談)
この談話は、私たち令和の親が子育てのストーリーを考える上で極めて大事な一石を投じていると思えてなりません。