私、ちょっと目を疑ったのですが、「自殺成功は勝ち。誰も言えないだけ。よく頑張ったね、最後は見事に勝ったと褒めてあげたっていいじゃないか」という意見を公然の場で述べる人がいました。立場が違うと、自殺に対する考え方がこんなにも違うものなのかと、しばらく考え込んでしまいました。まず、自殺を「勝ち負け」で考えるところ。私は了解できません。勝ち負けの問題でしょうか。確かに、自殺を「負け」と考える人が存在することを私も知っています。川上氏はその「負け」に対し、「勝ち」と反論しているのかもしれない。しかし自殺を、勝ちとか負けとか、いわば白黒で考えることに、私は理解を示すことはできません。この考え方を許容すると、「勝ち」を「良し」とする人にとって、自殺は「良い」ということになります。


断っておきますが、私は川上氏の意見に真っ向から「反対!ふざけるな!」と言っているのではありません。そのような考え方が生まれる経緯を考えているのです。川上氏は「自殺成功は勝ち。誰も言えないだけ」と述べています。死を「負け」とする同調圧力のせいで「誰も言えないだけ」と、そう言いたいのでしょうか。これと同じことを私は何人もの患者から直接聞いています。


「皆、心の中では死にたいと思っていますよ。死にたいと思わない人なんて、いないんじゃないですか?」


誰も言えないだけで、皆、死にたいと思っている。誰も言えないだけで、皆、自殺成功は勝ちだと思っている。そういう考え方がジワジワ勢力を増していることは事実です。良いか悪いかはさておき、このような考え方が確実に勢力を増しているのです。この考え方の背景には、生きていると自分の思い通りにならないことが多すぎ、せめて、自分の死くらい自分の思い通りにしてもいいじゃないか、という考え方がベースにあるような気がします。しかし禅の教えでは、世の中、自分の思い通りになることなど、むしろ少ない。思い通りにしようという姿勢が自分で自分の首を絞めるとされています。


自分の脳や体は自分のものなのだから、自分の好きにしてもいい。


こういう考え方をあなたは許容できますか。私は、どうにも極端過ぎるような気がしてなりません。自分のものは自分の好きにしてもいいというなら、自分の飼っている犬は自分のものだから、殺してもいいという論理にならないでしょうか。生物でなくとも、自分の持っている車は自分のものだから、要らなくなれば海に捨てちゃってもいいという論理にならないのでしょうか。


死にたい死にたいと訴える子どもに、親として「生命の取り扱い」をあなたはどのように説明しますか?「良い悪い」の白黒思考での説明では無理があることは冒頭で説明した通りです。あえていうなら、物事を「良い悪い」で片付けがちな社会全体の潮流に対する、これはしっぺ返しと言えなくもありません。「良い悪い」で主張すれば、必ず「反論」が生まれます。今、私たちは、かつて少数派だった「反論」が次第に勢力を増しつつあることに、先ず気づく必要があります。そして「白黒思考」で「反論」を叩き潰すといったやり方を手放さねばならない時が来ていると皆が自覚せねばならない、その時が訪れたのではないでしょうか。