「死」をないがしろいにする現代 | みとのや先生日誌:元帰国生だから言える事

みとのや先生日誌:元帰国生だから言える事

アメリカオレゴン州、ワシントン州にある学習塾巣鴨アドバンススクール(www.sugamoadvance.com)で日々子供達と奮闘中です。

もうこのようなニュースを聞かない日はあるのか、というくらい

自殺が当たり前になってきている昨今です。

マンションから飛び降りか


友人のtwitterなどでも

「人身事故があり電車が止まってしまった。時間に間に合わない 泣」

というようなコメントが入ってきますが

誰かの死よりも時間が優先されるのです。

他人の死に対して鈍感になっている日本の現状を

映し出しているのではないでしょうか。

いえ、これは日本だけではないでしょう。




人が死ぬということ。

これは今の学校教育では議論されることはありませんし

日常生活において「死」というものが入ってくる余地もありません。


私たちは日々多忙ですし

「死」も老人ホームや病棟という閉じられた空間においこみました。

核家族中心の生活において「死」が目の前に提示される機会も多くはありません。



しかし、フロイトが言うように

「あらゆる生あるものの目指すところは死である」

というのは誰もが否定できないことであり

生あるものは必ず「死」を迎えます。


これほど皆が必ず直面する問題であるにも関わらず

私たちはあたかもそれを議論することを恐れるかのように

「死」というものをどこか遠くに遠くにおいやり日々を過ごしています。





現代がどこか空虚になってしまっている原因に

この問題に取り組まない社会があるのではないでしょうか。


死を見つめることは

生を見つめることであり

それは、より充実した生を送るために必要なことなのだと思います。




是非、機会がありましたら、

子どもと一緒に「死」について「生」について話し合ってみてください。