<有名無名15句のインパクト>   
フランス文学者の桑原武夫の「第二芸術--現代俳句について」(岩波書店の雑誌「世界」1946年11月号)の衝撃は、発表から76年経った今日なおもつづいている。

 

虚子をはじめ俳句界の論客が何ら有効な反論を為し得ずに、「俳三昧。松のことは松に習え」と何のことやら訳の分からない隔靴掻痒の言葉で繕ってきたからではないか。
桑原武夫の「第二芸術論」に真摯に向き合おうとせず、芭蕉の言葉を都合よく使って世間を煙に巻き、自らも煙に巻いた。

 

朝日新聞の俳壇選者であった川崎展宏氏は、平成5年5月5日発行の「山本健吉俳句読本第一巻・俳句とは何か」の解説のなかで、この第二芸術論の要旨を紹介し、「当時の心ある俳人にとって、衝撃は最初に並べられた有名無名の俳人の15句を見たときにあったろう。衝撃は今もあるのではないか。似たり寄ったりの句が、今も倦むことなく作りつづけられているのだから」述懐し、自戒の論としていることを隠さない。

<俳人の存在理由を山本健吉の評論に>
さらに川崎展宏氏は言う。山本健吉の「挨拶と滑稽」「純粋俳句」などは「直接『第二芸術論』に応えるものではなかったけれども、結果からみて、桑原武夫の俳句否定論に対し、俳句固有の方法を示すことで俳句の存在理由を裏付けることになった。俳人の多くは、自らの存在理由を山本健吉の評論の中に探し求めたに違いないのである」と。

 

「挨拶と滑稽」は山本健吉が昭和21年12月から同22年4月にかけて「批評」「現代俳句」に分載した「時間性の抹殺」「物の本情」「古池の季節」などを一括りした題名である。

山本健吉は第二芸術論に何ら異を唱えず、ただ芭蕉、蕪村らの俳句から俳句固有の方法として「俳句は滑稽なり」「俳句は挨拶なり」「俳句は即興なり」の三命題のうえに成立するとして、それを解説しているに過ぎない。

山本健吉自身「俳句を作らない僕が、作らざる者語るべからずいう掟が暗黙のうちに強く支配している俳句について語る資格を与えられたとすれば」と述べているように、俳句界は「俳句を作らない僕」の文学者の俳論のなかに、俳人としての存在理由を求めざるを得なかったという状況が、今日なおつづいている「事実」を、川崎展宏氏の解説は物語っている。
      
<投稿句に劣る大家の句>
では、桑原武夫の「第二芸術論」とはどういう内容だったのか。要旨を紹介したい。
「日本の明治以来の小説がつまらない理由の一つは、作家の思想的社会的無自覚にあって、そうした安易な創作態度の有力なモデルとして俳諧があるだろうことは、すでに書き、また話した」の書き出しで始まり、
虚子をはじめとした大家の「家元俳句」の実体を完膚なきまでに暴き、文学・芸術の足を引っ張る「俳句」の社会的悪影響を厳しく指摘し、それ以後、俳句は井戸端会議の世間話の断片と同様の「第二芸術」といった印象が蔓延した。

少し長くなるが、「第二芸術論」の核心部分を引用したい。
「私は試みに次のようなものを拵えてみた。手許にある材料のうちから現代の名家と思われる十人の俳人の作品を1句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を5つまぜ、いずれも作者名が消してある。
こういうものを材料にして、たとえばイギリスのリチャーズの行ったような実験を試みたならば、いろいろ面白い結果が得られるだろうが、私はただとりあえず同僚や学生など数人のインテリにこれを示して意見を求めたのみである。

読者諸賢もどうか、ここでしばらく立ちどまり、次の15句をよく読んだうえで」優劣の順位をつけ、どれが名家の誰の作品か推測を試みてもらいたいと、以下の15句を記した。
1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝
4 粥腹のおぼつかなしや花の山
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく
9 終戦の夜のあけしらむ天の川
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし

      

<言葉として分からぬ大家の句> 
桑原武夫は言う。これらの句を前に、芸術的感興をほとんど感じないばかりか、一種の苛立たしさの起こってくるのを禁じ得ない、と。
「これらの句のあるものは理解できず、従って私の心の中で一つのまとまった形をとらぬからである。3・7・10・11・13などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。私の質問した数人のインテリもよくわからぬという。これらが大家の作品だと知らなければ(草田男、井泉水、たかし、亜浪、虚子)、誰もこれを理解しようとする忍耐心が出ないのではなかろうか」

 

「わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというものでなければ芸術の意味はない。現代俳句の芸術としてのこうした弱点をはっきり示す事実は、現代俳人の作品の鑑賞あるいは解釈というような文章や書物が、俳人が自己の句を解説したものをも含めて、はなはだ多く存在するという現象である。風俗や語法を異にする古い時代の作品についてなら、こういう手引きの必要も考えられぬことはないが、同じ時代に生きる同国人に対してこういうものが必要とされるということは、そして詩のパラフレーズという最も非芸術的な手段が取られているということは、よほど奇妙なことといわねばならない」と断じている。
      

<沈黙した虚子そして俳句界>

どのような句を詠もうと、門弟たちは有り難がるとの思い上がりがあったのではないか。また、そうした思い上がりを許す風潮があったのだろう。

 

桑原武夫の指摘が事実と異なるなら、真正面から文学論争をすべきだった。俳句が虚子のいうように「花鳥諷詠の文学・大衆の文学」ならば、第二芸術論に対し堂々と論陣を張るべきではなかったか。

 

しかし、虚子ら槍玉にあがった大家はもとより俳句界は第二芸術論に沈黙した。俳句界の視点からすれば「無視」したとなるのだろうが、しかし、事は俳句界の存在理由が問われているのではないか。無視すれば済むというものではない。個人に対する批判ではなく、俳句の文学としてのありようを厳しく問うているのである。

第二芸術論になんら有効な反論をせず沈黙したことにより、川崎展宏氏をして「衝撃は今もあるのではないか。似たり寄ったりの句が、今も倦むことなく作りつづけられているのだから」と言わせる状況にある。

      

<真の近代芸術にあり得ぬ実体>
桑原武夫はさらに言う。「こういうことを言うと、お前は作句の経験がないからだという人がきっとある。そして『俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである』という(水原秋桜子「黄蜂」二号)。ところで私は、こういう言葉が俳壇でもっとも誠実と思われる人の口からもれざるを得ぬというところに、むしろ俳句の近代芸術としての命脈を見るものである」
「十分近代化しているとは思えぬ日本の小説家のうちにすら、『小説のことは小説を書いて見なければわからなぬ』などといった者はいない。ロダンは彫刻のことは自分で作ってから言えなどとはいわなかったのである。映画を二三十本作ってから『カサブランカ』を批評せよなどといわれては、たまったものではない」と。

桑原武夫はさらに言葉を継いで言う。
「私と友人たちが、さきの15句を前にして発見したことは、1句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である。『防風のこゝ迄砂に埋もれしと』という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった『囀や風少しある峠道』や『麦踏むやつめたき風の日のつゞく』より優越しているとはどうしても考えられない。またこの2句は、私たちには『粥腹のおぼつかなしや花の山』などという草城の句より詩的に見える。真の近代芸術にはこういうことはないであろう」

 

「私はロダンやヴルデルの小品をパリで沢山見たが、いかに小さいものでも帝展の特選などとははっきり違うのである。ところが俳句は一々俳人の名を添えておかぬと区別がつかない、という特色をもっている」と大家の俳句が、雑誌の投稿句に劣ると手厳しく指摘している。指摘というより指弾である。
大家として揺るぎない地位を得ていた虚子の句を、投稿句に劣ると言い切り、そしてこうしたことは真の近代芸術にはない、とまで言っているのである。
 
俳句に真実、思いをそそいでいた人々にとっては、まさに驚天動地の論文であったろう。そして、名指された大家たちの反駁を待ったに違いない。
しかし、大家たちは口を閉ざし、これといった反論をしなかった。

恩師の子規を、子規君、子規と呼び捨てにして憚らない大家のなかの大家、虚子はここでも沈黙を通した。
躊躇ない舌鋒で月並俳句を排し、近代俳句を創始した子規の愛弟子とも思えない虚子の身の処し方は、心ある俳人の肩身を狭くし、俳句から離れさせていったのではないか。また、痛罵されるがままの「第二芸術の俳句」に関心を失った若者も少なくはなかったはずだ。