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suffcuts blog

東御市にあるマンツーマンヘアサロン
DO-Sヘアケアシリーズ & hanahenna専門
髪の傷みと時々頭痛とも闘う ONE on ONE サロン
suffcuts の bosscuts のブログです

ジキルとハイド。

本来、無口でクールなわたしはその反側面がダダ漏れるが如くおしゃべりになります営業にて。

無口でクール。

自分で言うかと。
いえいえ、マジですから。
ツマンナイですからプライベートのわたしなんかマジで強烈ツマンナイ。
クール、ってカッコいいとかそんなニュアンスはハナから含んでない感じでヨロシク平坦とかつまり”テンション低ぅ”みたいな感じってことで。
あ、イチイチ言うなですか。わかってるですか。
了解ハナシ早い。


ジキルがどっちでハイドがどんなだとかそんなんはよくわかってないんですけどつまり”双極性”って眺めにおきまして。

けっこう喋ります。
っていうか、ヘコむほど。

”話上手は聞き上手”

イヤな常套句でんな。
微塵もありまへんがな。
十年独り立ちしてますけど、ずっとしゃべりっぱなしでんがな。
キャッチボール、未だに出来とりまへんがな。

まいっか。

クールじゃねぇもん所詮。
さっきのクールとは違うクールってことね。
イチイチ言うなかよ。


すんごいしゃべったさ、昨日も。

昨日のハイライトトークは”キリ○ト様”関係トーク。
アブねーな。

いや、全然アブなくはないっす。
宗○心ゼロの○教オタクかぶれのわたくし。
主に二人連れな感じでお立ち寄りになられる関連の方々なんかにもまるきりフレンドリー。
はぐはぐな心持ちにおきまして談義交わしてしまったりとか全然オッケーなんですよ。

基本ミーハー(激死語)ですからわたくし、雑学としての宗○にかぶれたのも週刊ポ○トで連載されていた、いる? 最近見てないからよくわかんないですけど、”逆説の日本史”というコラムとよぶには余りにも文量情報量共に豊富なつまり連載記事なんですけど、それを書かれていた井沢元彦さんという作家さんの思考、歴史再考にいたく感銘を受けた時期がありまして、その井沢さんのモットーのごとくお話されるスタンス的基準といたしましての”その国の歴史を理解するためにはまずその国の宗○を理解しなければならない”といったメッセージを鵜呑みにいたしましてすっかりまるハマり。
井沢さんは宗○についても実にわかりやすい解説書的読み物までも上梓されておられました故にわたくしなんかまさに鵜呑みって有り様におきましてかぶれまくらずにはいられなかったってワケなんですな。長い。


敬虔なる心持ちにおきましてキ~系の布○活動をされているお客様もお出掛けいただいているのですがそんなタイミングにおきましてわたくし当然炸裂。
”敬虔 vs 宗○心ゼロ”のトークバトル勃発、ってわけです。

ケンカすんじゃないですよ、思考趣向の交歓とかそんな感じ。
いたって友好的やりとりにおきまして。

テーマは”御開帳”&”B.C A.D”

共通点ナッシング。
流れでそうなったってことなんですけどね。

つまりミーハー(超絶死後)なわたくしの何ならハロバイ関さん的面白がり方プラスαっていう言い掛かりを敬虔中の敬虔ってまさにそんな感じのとある方(すっげ仲良し開業当初からのお客様)がどんな解釈を差し向けてくれるのかな示してくれるのかな、なんて浅はかな興味ばっかで超しゃべりまくったんですけどその結果つまり、”信じる”ってことはスゲェことだな、ってことを改めて思わされましてあくまでも自分サイズってことなんですけど。

歴史っていう認識、つまり史実とかって、そんな感じの何だか平たい冷静な決定みたいなものには実は案外興味ないんですけど何だろ? つまり結果としての歴史ではなくて、そうなっちゃったらしき事情だったりそんなことを仕出かさずにはいられなかったとかなるべくしてなった的営み人間っていう営み感みたいなものを思うこと想像することが案外面白いらしくて、カウンターカルチャー的斜な思考とか興味、無関心的関心っていうのかな、事態ではなくそれにまつわる感情思惑みたいな、古来の景色欲求を思うことめぐらせるみたいなことがどうやら面白いらしく。長い。


人って、変わんない。

例えばアイデアを撒き散らすのは誰なんだ? って。
それを認めるのは、どんな有り様なんだ? って。
そして、その現象は。


飛び込み営業で来られたディーラーさんに熱烈に”オススメ”シャンプーのご説明をいただいて。
シャントリ共にバリエーション豊富、お客様の髪質、状態に合わせて組み合わせ自由アピール抜群! みたいな感じだしデザインもシンプルでセンス良し! ってことでつまりとても魅力的だったわけです。

女性のお客様って特に、そういうの大好きじゃないですか?
もちろん、わたしも大好き。
カウンセリングに箔が付く感じがするし、単純にカッコいい感じ、するじゃないですか?

”お客様の髪の状態に合わせて、今日はコチラのシャンプーを使用させていただきますね”

なんて、サラッと言いたい。
コレしかないじゃん、みたいなクールさ超使いこなしながら。

ツライさー。


”今日この場でお持ち帰りできる現象には、あんまり興味ないのよね”

なんて、日頃から言っちゃってるもの。
言っちゃってんですよ。
だから、残念だけど”イイね”とは言うわけにはいかなかったんですね。
いや、いたって真面目な感じの素敵な商品だったんですよ。
実際、今もちょっと揺れてたりなんかして。


でも、やっぱムリなのさー。
信じちゃってるもの。



コレ。


信じてもらっちゃってるもの、お客様にさえ。

シャンプーそのものがもたらす効果。
シャンプーの結果、髪そのものに表れる効果。

同じようでいて、実は違うんだなこれが。

みたいなところでもって、わたしはコレを信じてるはずなんですね。
信じちゃったはずなんですね。
とても地味なんだけど。

地味なんだけど。

例えばそんなことだけを理由に”浮気”してしまうのか、と。
いや、わかんないな。

わたしたちがお客様に提供するべきモノって、つまり何なんだろ? って。
何なら、”つまり”っていうある意味決定的ニュアンスを欲しがることこそがサービスを、ホスピタリティを縮小させる、狭小なモノにしてしまいかねないんじゃないのか、なんてこともやっぱり考えずにはいられないんですね、商売なんて所詮欲張りに違いないんですから。

所詮、方法論でしかないのかなあ。

マーケティングとか、浅はかながらも齧っていないでもないんですけど、それにしてもそんなこととはまた似て非なる思考欲求におきまして、考えるべきなんじゃない? と。

例えば、”信じる”ということ。
その有り様は如何ほどなモノなのかと。
如何なるモノなのかと。

方法論はもちろん重要だし学ぶ価値さえ侮れないモノ進んで学んでさえいるモノなんですけれど、その反側面にあるとさえ思しき自己的方法論つまり欲求とか恥ずかしながら正義だとか。
例えばそんなモノがこの度のわたしに”イイね”とは言わせなかった気がするんですね。


なんだろ。
回向柱に触れたがることを例えば信仰とか、どちらかというと思いたくないタチのわたし。
”触れたい”と思わせる、”ご利益”を期待させるその理由価値意味を思いたいわたしの生意気。

考え方はそれぞれなんだけど、例えば参ることを効果として期待出来る授かるご利益って、アリなの? って。
”ご利益”の有無真偽ってことではないです。
”信仰”って、そういうことなの? って、例えば生意気なそんなことです。

回向柱に触れる、という行為に意味を思わせるその理由はつまり、信仰ということ、信じるっていう有り様に違いないんですよね。
そうでなければあんな猛烈な人混み、耐えられるワケないですよね馬鹿馬鹿しくて騒々しくて。

”信じる”って、スゴイ。
人に具体的に作用する”信じる”っていうその有り様。


ただ思わずにいられないのは、”その有り様は、正確ですか”ってそんな生意気なこと。
触れることで得られることを望む期待することは、”信じる”っていう気持ちにはたして真っ直ぐに向いているのかなあ、って。
参ったから、この人混みの中を遥々参ったんだから触れたんだから、”きっと何かいいコトあるよねありますように”って願いははたして真っ直ぐなのかなぁ、って。


毎日シャンプーするんです。
信じてるシャンプーで。
すぐには良くならない、何なら元より扱いづらくなった気がしてしまう時期さえあるのかもしれないその有り様さえその先にあるモノ期待するモノに繋がっているその道すがらじゃん、っていう期待信仰にも似た期待をこめてシャンプーするんです毎日。

シャンプーそのものの機能によってもたらされる効果ではなくて、シャンプーすることで整えられていく髪そのものの機能っていう効果。

回向柱に触れることでもたらされるらしきご利益を期待するのではなく、ご利益を信じる気持ちが心が積み重ねられた日々の後にもたらされる何なら自らが引き寄せるのかもしれない例えばご利益ってよばれるらしき効果。

受動的、能動的、なんて振り分けはさぞかし生意気なことではあろうものなのだけれど、それにしても期待があるのならそれにふさわしい例えば能動的なる自分流の心掛け積み重ねみたいなもの、あるいは期待にふさわしいと思しき理由くらいはあって然るべきというかあるべき、とは思ったりするんですね。長い。

与えられることは、有難い。
ならば、有難がるなら、それにふさわしい理由を持つべき独立した理由でも何でも結構つまり積極的に、って。

信じるモノは自由。
信じたいわたしの基準はコレだからって、だから否定ではなく”信じる”っていうその理由。
ましてやわたしはアナタに信じてほしいからこそ尚更、せめて自分ばっかりはゆるぎない”信仰”をもって眺めなければって、そんな大袈裟なシャンプー愛。

揺らぐよシャンプー愛。
だからこそ考えるシャンプー愛。

現在の”シャンプーの常識”っていう決定は、例えば”B.C A.D”なんて何モノかによる決定に似てなくも無いよねその疑いの無さとかさ、ってなんだかなぁ。


”信じる”っていう個人的理由は、やっぱり裏切れないさー。
能動的理由。
ウチのシャンプー。

回向柱は有難い表現。有難い。
でも、わざわざ触れたがらなくたって、わたしは大丈夫。
そういう信仰。
信じ方。