前回に引き続き、この歌をさらに深堀りしてみたいと思います。

 

 中島みゆきさんの、デビュー当初からの一貫したスタイルの中で、世の中の弱者に寄り添った視点で歌われる曲が数多くあります。

 

 弱者とは、強い者に対して、小さな声すら上げることもできず、ただ黙って従い、耐え忍ぶ人たち。生きるためにそのような選択を取らざるを得ない人たちです。

 

 ここでいう頑固者とは、時代の流れに抗い、頑なに変化していくことを拒む者をさすことは言うまでもありません。しかし、そのような一部の本物の頑固者は、そこまで哀しい思いをするでしょうか。

 

 一方で、時の流れを掴めず、時代についていけない者も少なくありません。ただただ時代に翻弄され、取り残されるか、あるいは飲まれていくだけの名もなき人たち。この歌では、そのような大勢の弱者も含めて、「(哀しい思いをする)頑固者」と呼んでいるのではないかと思うのです。

 

 また、歌の真意をさぐる上で、中島みゆきさんの歌い方にも1つのヒントを見ることができます。それは、最後の最後に歌う熱唱の部分と、「戦う・・・ため」のあいだにつくった大きな「間(呼吸の溜め」です。

 

 僕たちは卒業式で合唱するのに、この「溜め」を合わせることが最大の問題でした。カラオケと違って、卒業生全員で熱唱する最も重要な部分。さらに、この大きな「溜め」こそ、中島みゆきさんの願いが込められている部分であることをとても意識したのです。

 

 最後のフレーズにこそ、中島みゆきさんの願い、主張が込められていると考えれば、その前の「時の流れを止めて」も中島みゆきさんの願いの言葉に聞こえてきます。

 

 さかのぼれば、冒頭で「世の中はいつも変わっているから」と歌い始めている。

時の流れを止めて」は、できるはずものないことへの作者の願望と捉えることもできるのです。

 

世の中」=「世情(世論)」=「シュプレヒコール(時代の声)」

全ては移り変わっている。

 

シュプレヒコールの波 通り過ぎていく

 

変わらない夢」を主張する人たちも時代の「流れ」に抗うことはできません。「変わらない夢」を求める時代の声も、ただ流れて通り過ぎていくしかないのです。

 

 逆に、声をあげることができる人たちは、時代の流れもうまく乗り越えていける人たちでもあります。

 

 そう、「変わらない夢を見たがる者たち」は、ただ「見たがる」だけであり、それが「」でしかないことも知っている。

 

 なのに、それが崩れると「頑固者」が悪いのだと言って彼らを切り捨てていく。

 声をあげられるものはそうして「通り過ぎていく」だけなのです。

 

 時代の流れに抗って、流れていく「変わらない夢を見たがる(だけの)者たち」と戦いたい。

 

時の流れを止めて」は、そのための願い。

 

 本当に哀しい思いをする人たちとともに、できるはずもないことを願う。それこそが弱者(ここでは「哀しい思いをする頑固者」)に寄り添った視点なのです。

 

 そんな願いを酌んだ上で全体を見渡すと、ようやく詞の一貫した整合性が取れる気がします。そして、中島みゆきさんらしい慈愛に満ちた深い意味合いのある歌として聴くことができるのではないでしょうか。

 

 これは僕なりの解釈ではありますが、この歌を聴くための1つの提案、願いでもあります。

 

 

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