意味の世界を出て、世界をディスコードする。 | 須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

昨日の続き。

 

現実は幻想だって話を書いたので、さらに話を進めておきましょうね。

 

僕らは、幻想の住人。

幻想というのは、何かというと、「意味」のことなんだな。

先日、こんな素晴らしいやり取りがあったので、ご紹介。

 

会社の上長が、金曜日の夜に電話をしてきたのだけれど、

色々忙しく、着信に気がつかなかったわけ。

何回か着信があったのだけれど、気がついたら深夜。

深夜になっちゃったし、明日から土日だから月曜日でよいかなー

と思ってたらラインに、

「君はコールバックを大至急する立場にある、

もし緊急連絡だったら?という想像力と自覚が足らないのでは?」

と入っていたわけです。

 

かっちーん!と来るわけですよね。

そこから、僕は長文の返信するわけですよ 笑

 

・そもそも大至急って何?人でも死んだ?

・土日だろうと夜だろうとコールバックって何?社畜なの?

・電話に出ないだけで、想像力と自覚が・・・って話までいく?

・そもそも、人間は対等ってことわかってる?

・やってくれて当然という意識って不幸のはじまりだから

 やめたほうがいいよ

 

すると、これまた長い返信がある。

要点は

・上から目線で言っているわけではない(確かに)

・急なZOOM会議のセッティングの問題があった(←あ、須藤の担当じゃん)

・「想像力と自覚」と書いたけれど、「優しさ」の問題、

 つまり、相手が何度も電話して、留守電も入れていて、

 困っているのに、無視するってのはどうなの?(←留守電聞いてない)

 

なるほど、なるほど、と見えてくるわけですよ。

 

これ、長い長い、言葉を交わしてるのだけれど、簡単に言えば、

「思いやりがなくない?」「ひどくない?」

って、互いに言っているだけなんだよね。

 

ここ、ポイント。超ポイント。

このズレを生み出したのは、「優しさ=〇〇」という定義(信念)の違いなわけ。

 

僕らは、子供の頃に、親の立ち居振る舞いを見て、

行為と、その行為の持つ意味 をつないでいく。

例えば、自分をケアしてくれることを自分への愛情なのだと翻訳し、
・愛=ケアされること(してくれること)

というデータベースをインプットする。

 

けれども、ここが大事でね、このルールは、

そのファミリー独自のルールなんだ。

 

さて、見えてきたと思うけれど、このすれ違いの原因は、

このルールブックの定義が違っていたことに、起因する。

 

上長は、

・思い遣り=困っている相手を助けてあげること

というルール(定義)を持っていた。

そして、僕は、

・思い遣り=相手の事情を尊重し、相手に求めないこと

というルール(定義)を持っていた。

 

これが見事に対照的なわけ。

 

・思い遣り、やさしさ=自分の都合を聞いてくれること(応えてくれること)

・思い遣り、やさしさ=自分の都合を押し付けないこと(応えさせないこと)

 

これは、どちらが正しいという話ではなく、

人間の持っている、他者との関係をつくるための、

2つのチャンネルがあるっていうだけだよね。

 

だけど、その一方を、無意識にルールとして持っていると、

互いの行動が、「思い遣りがない、やさしさがない」様に映るわけ。

それで、かっちーん!と来るわけ。

 

さてさて、長くなったけれど、体験というのは、

いかに自己都合で、一面的なモノかがわかったかと思う。

 

現実に起きていたのは、

・連絡がとれなかった

という、シンプルな出来事だったけれど、

それが互いにとって「やさしさの不在」という意味をもった体験として

幻想化されたわけ。

 

この体験を通じて、僕らは、「思い遣り=〇〇」という

自分の中にある信念に気が付く。

すると何が起きる?

 

「思いやりのない人に出会う」という体験がなくなるわけ。

 

仕組みは簡単。

「思いやりがない人」と自分が断じてきたのは、

自分の知っている「思いやり」以外の「思いやり」を

持っている人だったってこと。

 

思いやり=〇〇というプログラムを見つけ、ディスコードする。

すると、世界が、シフトする。

面白いくらいに、簡単な仕組み。

 

さて、こんな風に自分の中の「定義」を超えていくのだけれど、

すると、目の前の出来事を、意味化する率が下がっていく。

 

・やさしさ=〇〇

という定義(コード)を解除すれば、世界から「やさしくない人」がいなくなるし、

・愛=〇〇

という定義(コード)を解除すれば、世界は愛に満ち溢れる。

 

自分の持っている、言葉の定義が、その人の出会いを決める。

その人の人生を決める。

解除と呼んでもいいし、定義をもっと普遍的なモノへとアップデートするイメージでもいい。

その場合は、異なる二つの定義(テーゼ×アンチテーゼ)が出会って止揚し、
新しい定義(ジンテーゼ)ができるという、弁証法的なイメージになる。

 

いずれにせよ、同じことだね。

なので、言葉って何?意味って何?価値って何?

という部分を理解しておくのは、有用。大変に有用。

 

この分野を最もわかりやすく分析したのが、構造主義哲学の記号論。

ロラン・バルトは、神。

 

最も深く探求しながら、さらに探求者を変容させるところまで持っていくのが

文学ね。本当に本当に困ったときに救ってくれたのは、いつも文学だった。

 

さて、まとめ。

 

自分の解釈は、違うのではないか?

自分の読み方は、何か、誤解しているのではないか?

という可能性を持った時にだけ、人は幻想から自由になれる。

 

それは、ありのままの現実を生きる

ということではなく、

幻想を生きながら、それを幻想だと自覚しているということ。

 

世界と自分を揺らぎの中に置いておこう。

自分と世界に訪れるものに、自分を拓いていよう。

その柔らかさは、あなたの、強さになる。

そして、それは、あなたと世界を開放する。

さて、一緒に、世界をディスコードしようじゃないか。