常識というのは、すごいものです。
いつも、常識なんてさ・・・という話をすることが多いのだけれど、
常識ってのは、すごい仕組みですよね。
「型」だからさ、ともかく、型通りにやっていると、
そこまで失敗しないわけです。
ちゃんと勉強して、いい学校に行って、いい会社に入って、安定した生活を育む。
これってね、けっこうちゃんとやれば、素敵な生活だと思います。
仕事にしたって、ビジネスマナー、戦略スキーム、社内ルールと、
「型」を前提に動かすから、相当に効率化できている。
社会にしたって、相手が常識に基づいた行動をするだろうと想定するから
計算ができて、予測に基づいて色々動ける。
契約書を結べば、お金を払えば、サービスが提供される。
本当に、良くできているよね。すんばらしい仕組み。
だから、僕は、きわめて常識的に生きたらよいと思っているわけです。
もちろん、この「型」は、強力な圧力となって
「型破り」を排斥するという特徴を持っていますから、
自分の自然を押し殺し、窮屈な型の中で息も絶え絶え・・・ということにもなります。
そして、ルサンチマンにも書きましたけれど、
「型」の中で生きることが、素晴らしいことだ!という幻想を生み出し、
常識的であることに価値があるという倒錯が生まれてきます。
あくまで、生き延びるために有用な知恵だったのに、
その知恵が、人間性を奪っていくわけです。
さて、なので、常識の素晴らしい機能を利用し、
常識の副作用の部分を、無害化してしまえばいいわけです。
それは、常識を捨て去り、常識を生きるということです。
きわめて常識的に、まったく自由に生きるということです。
何のことやら?となりますので、解説します。
常識というのは、儀礼の体系です。
合理性の高低はありますけれども、ともかく、そういうルールで世界は動いている
というところは、否定しようがありません。
いうなれば、飛車は前と横しか進めないよ、斜めはダメってこと。
理由を求めても仕方ない。
そんで、それが不条理なモノかもしれないけれど、今、ともかく世界は
そう動いているってことですね。
そして、ここが重要なところなのですけれど、
そのような常識があるということと、自分がその常識に支配されているか、
というのは、まったく別のことなのです。
常識というルールに支配されているというのは、
自分がそのルールを自分の気持ちや、自分の考え方だと信じている状況です。
社会常識、良識、道徳といった被造物を、
まるで、自分の内側から出てきたものだと勘違いしている状態。
これが、常識に隷属している状態です。
そもそも思考というもの、意見というものは、
すべて、自分の外側からやってきたものです。
誰かに教えてもらったもの、どこかで耳にしたもの、それの寄せ集め。
だから、自分の意見というのは、そもそもないんです。
僕らは作者ではなく、編集者なのです。
常識が僕らに入り込むのは、言葉を覚える時です。
言葉というのは、その社会の常識やルール、価値観の体系です。
だから、僕らが「考える」という行為をする時点で、または、「認識する」とか、
「感じる」という行為をしている時点で、既に、常識の内側にいるんです。
つまり、僕らの意識、僕らのマインドというのは、
そもそも、「常識」を使って動いているってことなのです。
だから、常識から自由になるというのは、
自分自身から自由になる・・・ということになります。
そんなことできるのでしょうか?
できるんですね~
思い出してください。僕らの目的は、「自由に生きること」ではなく、
常識に隷属しないことでした。故に、それが可能だと言えるのです。
どう実現するのか。
それは、「自分自身の見ている世界が、体験している世界が、
常に、自分の常識によって作り出されている世界だと認識して、生きる」
ということによって、実現されるのです。
僕らは、完全にフラットに、ありのままを見る、聞く、体験する
ということを、実現できません。
永久に。
けれど、自分自身の見ている世界が、自分の作り出したリアリティであること、
自分が、自分の常識や正義、期待や欲望を使ってつくった
ひとつのファンタジーであることを、理解していることはできます。
そして、自分自身の意見や、正義や、世界観
こだわりや、アイデアが、自分の内側からやってきたものではなく、
自分という「場」に流れてきたものに過ぎないことを理解していることはできます。
それは、自分の目の前の世界に起きてくる出来事、
自分の内側に起きてくる出来事(思考・感情)、
その双方を、観想しているということです。
起きてくることを、ただ、起きてくるに任せている。
もちろん、起きてくる時点で、常識による色付けがされています。
例えば、「ひどい人に攻撃された」という体験があったとしたら、
その時点で、ファンタジーがはじまっていますよね。
これは、コントロールできません。
けれど、そういう体験が自分の世界で起こったということを
100%体験しながら、かつ、その体験を100%ファンタジーだと知っているということ。
その意識にいるとき、僕らは起こることを許している。
起こることを、許す。
実は、ここに自由があります。
そして、この意識にいるとき、僕らは、自分が常識的であることも、
常識の体系の中で生きることも、ゲームになります。
面白い「型」、誰かが作ってくれた「仕組み」を使って、
加速することが可能になる。
書いていたら、あんまりまとまりませんでしたけれども、
今日はこのくらいに!
ではでは