2015年のメルマガより。
3年前、こんなことを、書いていました。
きっと3年後も同じことを、書いていると思います。
* * * *
僕は今、湯河原の地で暮らしています。
9月末にこちらにやってきて、早いもので一ヶ月。
毎日、庭に出て、木々を切り、雑草を抜き、花を植えていました。
ここ5年ほど僕は”目に見えない世界”を追いかけてきました。
言葉、アイデア、関係性、意識、心、精神、変容・・・
もちろん、現場は日々の生活の場、生きるという現象そのものですけれど、
対象は、目に見える現象の背後にある、見えないもの(哲学的に表現すれば”構造”ですね)だったわけですね。
その探求は、とても興味深く、またたくさんのことを教えてくれました。
そして、僕の旅はまた別の世界へと向かっているようです。
木を切り、枝を落とし、丁寧に形を整える。
絡んだ蔦を外し、土を運び、花を植える。
それらは、とても具体的な世界での出来事です。
その後ろにあるものではなく、”そのもの”が対象です。
それが、今、とても心地よいのです。
時に、僕は母屋の二階の南向きの出窓に腰掛けて、
ただ、秋の風の中で、逆光の木々が黄緑色に輝いているのを、眺めています。
鳥たちが雲ひとつない空を滑っていきます。
紺碧の相模湾に、真っ白い船が小さく浮かんでいます。
ここに座っていると、ただ、この世界の完全さが、完璧さが、わかるのです。
世界が、完璧であること、そのことを、少し書いてみましょう。
この世界というのは、「存在」ではありません。「現象」です。
世界というのは、我々ひとりひとりが自分の意識の中に描いた、
「心象スケッチ」です。
60億人の人がいるのなら、世界は60億個存在します。
それぞれの世界は、パラレルワールドとなっていて、
自分以外には体験できません。
世界とは、脳(意識)の中に作られた自分専用のロールプレイングゲームです。
僕の世界は、僕のもの。あなたの世界は、あなたのもの。
自分が信じていることが、自分の体験する世界です。
そして、すべての現象は、すべての体験は、自分が作り出したものです。
僕たちは、自分自身の世界の、創造主です。
あらゆる体験が、自分自身の手によって作られ、自分自身によって体験されます。
この世界にある、すべてのものが、自分の内なるものです。
自分の内側にあるもの以外に、僕らは、経験できません。
映画を作るのに、自分の撮影スタジオにあるもの以外は、使えないのです。
自分が、思い描く、この世のもっとも醜いもの、悪どいもの、貧しいもの、
思わず目を背けたくなり、罵りたくなり、絶対に許せないと思っているもの、
それは、すべて自分の中にあります。それが、あなたです。
そして、自分が思い描く、この世のもっとも美しく、気高く、善良で、豊かで、
憧れ、感激させられ、心満たされるもの、それも、すべて自分の中にあります。
それも、あなたです。
それは、どこまでいってもなくなりません、
それらは、捨てるべきものでも、手放すべきものでも、
獲得すべきものでもありません。
生まれた時から、死ぬまで、僕らの中にあるものです。
この広い宇宙のすべてが、自分の鏡です。
これだけの広がりを、僕らは、内側に持っている。
この美しい秋の夕暮れも、砂漠に輝く星々も、空高く舞うハゲワシも、
航空機事故も、戦争も、煙たい隣人も、そこに見つけるすべてが、
自分の欠片です。
世界に闇を見るのなら、それは自分自身の中に
「見たくない部分」があるということです。
そして、自分がその内なる闇を照らした時に、
世界はひとつ光に包まれることになる。
僕らは、それぞれが、体験をしにやってきています。
それぞれが、必要な体験を、作り出し、学んでいます。
自分の現実は、そういう意味で、完璧なのです。
100%、自分にとって最適な現実を、それぞれが生きています。
僕は、たくさんの人の人生を聴かせてもらう場所にいました。
その人が体験している現実は、その人にとって100%最適なものでした。
なぜ?という場所にいる人は、一人もいませんでした。
誰もが、その人に最適な、本当に完璧な場所を生きていました。
ある人は、すべての人が自分を憎んでいると言いました。
ある人は、自分は一切価値がない人間だと言いました。
ある人は、自分は懸命にやっているのに、心無い人に傷つけられると言いました。
それぞれ、その人にとっての唯一の、本当の、体験できる現実です。
その人にとって、今、必要な体験であり、必要な現実なのです。
その人は、そのような現実を「自分で作り出し、自分で体験する」という
選択を通じ、何かを学ぼうとしています。
それは勇気ある選択です。
そして、その現実を作り出したからには、
必ずそこから学ぶことができるということです。
そして、それを学んでしまった時、別の現実へとシフトすることになります。
例えば、自分が憎まれていない現実、価値がある現実、傷つけられない現実を、
文字通り、作り出すことになります。
もともとの現実が間違っていたわけでも、
誤解に基づいていたわけでもありません。
2つの異なる現実があり、隣の現実へとシフトをしただけです。
それぞれが生きている現実は、完璧なものです。
自分がどう思っていようと、完璧です。
だから、ただ存分に生ききればよいのです。
ただ味わえばいいのです。その瞬間を、ただ味わう。それだけで、いい。
それに気がついた時、ただ、そこにあるものを、
ただ「ある」と受け取ることになります。
自分の中の光も闇も、同じだけ愛した時に、
世界の調和と美しさを味わうことになります。
こんな風に書くと、僕はもう、そこにいるように聞こえてしまいますが
そうではありません・・・・いや、そう書くのも正しくはないのです。
なぜなら、そのような意識の自分も、存在しているから。
そのような意識の自分と、現実に抵抗している自分が、同時にいます。
僕の中のたくさんの人格がそれぞれに教えあい、ささえあい、ざわめいています。「私」という意識とは、実は、そんな別々の「私」を見守る
仮想的な機能に過ぎません。
この話はまた次回にしましょう。
それでは