前回の投稿(http://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12282346034.html
)で提出した現実2.0という視点を、
具体的なケースの中で見ていこうと思います。
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先日、こんな相談を受けました。
相談者はお母さん。娘2人、子育て中。
最近、こんなことがあったそう。
おてんばな次女が些細なことから、友達のAちゃんと大げんか。
担任の先生が止めに入り、仲裁してくれたので、無事にその場は収まった。
翌日、Aちゃんのママからお電話。
「お宅の娘さん、乱暴すぎませんか?これから、注意してくれないと困ります!!!」
結構な剣幕だったそうです。
お母さん、申し訳ありませんと謝って、その場はやりすごしたものの、
モヤモヤ・・・
「子供の喧嘩に親が出てくるってどうなの?うちの娘だけが悪いわけじゃないのに」
触らぬ神に祟りなしか・・・と思ったものの、その人とは顔が合わせづらいし、
モヤモヤが募り、お母さん同士の付き合いにも顔を出すのをやめてしまったし、
おてんば娘に振り回されることにも疲れてしまった。
どうしたらいいでしょう??
うんうん、ありそうなケースです。
みなさん、自分だったらどう感じるか、どんな風に対応するのか、
考えつつ、読んでみてくださいね!
さて、僕は、もう少しお話を聞いてみることにしました。
「お姉ちゃんの時は、どうでしたか?そんなことありませんでしたか?」
すると、こんな答えが返ってきます。
お姉ちゃんは、真面目で、誰かと喧嘩して・・・っていうのは、なかったんです。
でも、少しいじめにあってしまって・・・担任の先生にも頼んだのですけど、
大変だったんです。
僕は、さらに聞きます。
いじめっ子のお母さんたちとは、話合ったりしなかったんですか?
・・・言いたいこと、たくさんありました。
でも、子供のことに親が入っていくのも良くないし、
もっと悪いことになってしまったらと思うと、できなかったです。
はい、ここで、僕のヒアリングはおしまいです。
この時点で、「何が起きているのか」そして「どうすれば良いのか」がわかりました。
材料が出揃ったので、分析と解消のプロセスに入って行きます。
今回は、「現実2.0」というコンセプトを解説するのが目的なので、
まずは、「現実1.0」と「現実2.0」で、この出来事を2通りに解釈してみましょう。
【現実1.0に立って眺めてみる】
まず、「現実1.0」に立ってみましょう。
現実1.0とは、世界と私、あなたと私 を、分割して捉える視点です。
ですので、世界はこう見えるはずです。
自分をいつも悩ませる”おてんば娘”。
もちろん、娘の”おてんば”が悪いことはわかっているけれど、
娘にだって言い分はある。
なのに、一方的に悪いのはコチラと決めつけ、
当事者間では解決したのに、電話までかけてくるAちゃんのお母さん。
なんで、私ばっかり苦労するの?
そう、「現実1.0」に立つと、
「悩まされ、苦労させられ、攻撃される自分」と
「悩ませ、攻撃してくる相手」という2つの存在が見えてきます。
いたって常識的な見解です。
現実1.0に立ったアドバイスは、例えばこんな感じになります。
・相手は変わらないのだから、気にするのやめたほうがいい
・そういう相手もいると、受け入れるしかない
・リフレッシュして心機一転
・相手も誤解しているのかもしれないので、ちゃんと話し合おう
・・・もちろん、これらのアドバイスが功を奏するかもしれません。
けれど、それが本質的な解決に向かう可能性は、低いです。
「現実2.0」に立つと見えてくる全く別の風景を理解すると、
その意味がわかるはずです。
【現実2.0に立って眺めてみる】
さて、現実2.0に立って、眺めてみましょう。
現実2.0とは、世界と私、あなたと私を「一つ」として見ていきます。
何が起こっていたのか。現実2.0の視点から解説します。
お姉ちゃんがいじめられていた時に、お母さんは言いたいことがたくさんありました。
だけど、全てを飲み込み、我慢して、自分を押し殺してきたんです。
なのに、Aちゃんのお母さんは、何の我慢もせずに、言いたいことを言ってる。
それって、ずるい!
そう、本当の気持ちは、ここです。自分はやりたくてもやってないことを、
平然とやってる人に対して、ずるい!と思っていたんです。
そして、もちろん、おてんばの次女に対しても、同じ想いがあったわけです。
だから、許せない。許したくない。
そう、もうお気づきですね。
お母さんが、”押し殺した”本当の自分、大人な自分の影に隠してきた、
「おてんば、わがまま、言いたいことをバーンと言っちゃう自分」が、
Aちゃんのお母さん、おてんばな次女に、投影され
顕在化しているという構図です。
そう、彼らこそ、自分の中の、隠してきた自分の鏡だったということです。
現実2.0では、相手=自分です。
特に感情を逆なでするような、自分を揺らがせるような出会いは、
「隠してきた自分」との出会いに他なりません。
隠してきた自分とは、隠しておきたかった自分です。
そういうことは、してはいけない。
そう思って、ずっとずっと生きてきた。そう、ずーっと昔、子供の頃から。
だから、この時点で、もうそれを手放していい。
もう、自分の本当を、誰に遠慮するでもなく、自分のために、生きていい。
そして、それをするタイミングだということです。
「問題」は、実は、問題ではありません。
問題は、問題だとして扱っている限り、決して解けません。
なぜなら、「問題」とは、”目くらまし”だから。
このケースで言えば、おてんば娘 や うるさい友達のお母さん と
うまくやらなければならない・・・という問題は、フェイクです。
解決する必要など、微塵もない。
それは、「自分の中のおてんば娘」から目を背けるために作られた偽装問題。
人間関係の問題は、すべて、フェイクです。
何一つ解決できません。何一つ解決する必要もありません。
もともと、それは、本当の自分を見ないために作り出した、”嘘”だからね。
さて、自分の中のおてんば娘を許してしまったなら、
「おてんば娘」も「うるさいAちゃんのお母さん」も、何も問題がありません。
万が一、喧嘩売られたら、買えばいいだけです。
何か言われたら言い返すし、言いたいことは言えばいいだけです。
さて、面白いことに、自分がおてんば娘になってしまうと、
娘さんも、Aちゃんのお母さんも、何だか「大人しい人」に
なってしまうでしょう。
なぜなら、彼らが、わざわざ「おてんば」を見せてくれる必要がなくなるから。
そして、自分は、「おてんば」に見られるかもしれないけれど、
そんな自分を本当に許し、愛している時、世界もあなたを許し、愛するでしょう。
世界と私は、一つだから。
さて、今回はこんなところにしておきます。
今日は、初回ということで、かなりベーシックな内容でしたけど、
文化論、テキスト論、アートと創造性、イノベーションなんてテーマも
扱っていけると思います。
ではまた次回。