わたしの向こうを見た瞳 | 須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

心惹かれる人たちがいて、
自分が、なぜ惹かれるのか、どこに惹かれているのか、
これまで意識をしていなかったけれど、
その理由がわかった気がした。

僕が惹かれていたのは、彼らの瞳なのだ。
そして、その発見は、
同時に、少し胸の痛む気づきもつれてきた。

あの、深く透明な眼差し
無数の星をたたえた、小さな銀河の瞬きは
「見てしまった」のだ。

見てしまった。
覗いてしまった。

心の深淵を。

深淵に触れた瞳は、色を変えるのか。
それとも、心の深淵を、まだ瞳は眺めているのか。

いつだって、彼らの眼差しは、
僕の眼窩の、はるか後方を見つめていて
その瞳に飲み込まれてしまいそうな僕は、時に、目をそらした。


僕は、ニーチェを思う。
「大樹がその梢を天に届かせる時、
 その根は、地獄に届いている」

胸が痛んだのは
深淵に触れる契機とは、
多くの場合、あまり素敵な経験ではないからだ。

いや、それどころか、
多くの場合、心が壊れるような、張り裂けるような経験だからだ。
それは、ただ傷ついたり、悲しかったことではない。
魂の深部へと、自ら向かうことなく、たどり着けない地平。

彼らは、見た。
「わたし」の向こうを。
きっと、見ざるを、得なかったのだ。

そして同時に、僕は、気がつく。
彼らが、美しいのは
その梢を、天に届かせているからなのだと。

たとえ、今、悲しみや苦しみの中にいようと、
愛と喜びの中にいようと、
彼らには、共通した「優しさ」がある。

「わたし」を超えた、生けるものへの、
ためらいのない愛があって
僕は、その切実に、その純度に、震えるのだ。

僕は何を見てきたか。
僕の瞳は、何をたたえているのか。
いつか僕の眼差しも、色を変えるのだろうか。
その時に、僕は、何を眺めているのだろうか。