トルコに行ってきました。
今回の旅は、僕にとってとても意義深いモノになりました。
シュリーマンのトロイ遺跡。
(僕は子どもの頃、考古学者になりたかったのです!)
そして、ギリシア人の築いたエフェッソスに、ヒエロポリス。
アリストテレスが歩いた大理石の上に立つのは、感慨深いものでした。
パムッカレとカッパドキアも素晴らしい場所でしたけれど、
最大の収穫は、イスラームとの出会いだったと思います。
これまで、イスラームは触れる機会がなく、
ぼんやりと浮かぶのは
ベールと、5回の礼拝と、メッカとコーランと・・・
そして原理主義とイスラム国。
今回のトルコの旅は、そんなイメージを
僕の頭の中から追い出してくれました。
ほんのすこしかもしれませんが、
「イスラームの心」に触れることができた気がしたのです。
それは、
街行く女性たちのベールから覗く碧い眼差しに、
モスクで祈る人々の、重ねられた祈りの動作に、
絨毯を織る女性達の、藍に染まった指先に、宿った
素朴で、純粋で、美しい匂い。
人々の暮らしの中にいつもあって、
その慎ましやかな生活を支える、信仰、イスラーム。
暮らすこと、生きること、その全てに流れる清澄に触れた時、
僕はイスラームの本質を垣間見た気がしたのです。
それは、キリスト教の聖堂でも、
仏教寺院でも感じたことのない感覚でした。
もちろん、きっと、本当に「垣間見た」だけなのでしょう。
だから、イスラームとは・・・といった宗教学的な分析も、
心理学的な解釈も、人類学的な新しい知見の創出も、できないのです。
でも、僕は、僕が感じたこと、
イスラームは、本質的な、ものすごく本質的な人間の魂と共にあるモノだ・・・
ということを、書いておきたいと思ったのです。
僕が、トルコに行っている間に、
日本人が”イスラム国”に人質に取られるという事件が起きていました。
たくさんの思惑が重なる中東の地、
5000年前から、争いが絶えたことのない地です。
ヒッタイト、海の民、アラブ人、ギリシア人、マケドニア人、トルコ人・・・
この争いは、いつだって、「資源」をめぐるものでした。
森林資源をめぐる争いに端を発し、
鉄、金といった鉱物、そして、石油、将来は、水・・・
この争いは、「宗教※が存在しない時代から続いている」のです。
つまり、中東での争い、諍い、紛争と宗教は、本質的には関係がない。
イスラム国の動勢とイスラム教は関係がないのです。
(※ 狭義の宗教:聖典、神、戒律を持つ原理としての宗教)
冷静に考えれば、わかること。
でも、僕は、そのことを考えることすらしていなかったな・・・
と改めて思うのです。
事件の平和的な解決を祈りながら
同時に、この出来事が、新たな誤解へ、
不理解へとつながらないことを願います。
最後に、イスラームの神秘主義教団の一つ、
メヴレヴィー教団の「メヴラーナの七つの教え」を紹介します。
1.流れる水のように、気前よく、人を助けなさい
2.太陽のように、情け深く、親切でありなさい
3.夜のように、人の間違いを覆い隠してやりなさい
4.死人のように、怒りや興奮は葬り去りなさい
5.土のように謙虚でありなさい
6.大海のように寛大でありなさい
7.ありのままの自分を見せるか、見られる姿の自分になりなさい
トルコに感謝そして、イスラームに敬意を。
トルコに感謝そして、イスラームに敬意を。