「面白い」と口にして | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

僕の口癖に、「面白いね」という言葉がありました。
誰かの話を聞いた時に、よく口にする言葉です。
 
どんな話にも、必ず、より深く人間を理解する契機があり
自分を知るきっかけが、隠れている。
 
だから、そこに引き付けられ、「面白い」と口にする。
それは、事実であり、本心からの言葉だったと思います。
 
しかし、「その『面白い』という言葉に、傷ついた」と言われて、
ふと、自分の言葉遣いを眺めてみたのです。

 昨日、偶然、同姓同名の人に出会ってさ・・・という話は、
「面白いね」で良いんでしょうけど、
 僕は、 「いつも、上司とうまくいかないんです・・・」 という話にも、
「面白いですね・・・」と応えていたわけです。
指摘されて、気がつきました。
 
「面白い」。
 
その言葉の裏にあったのは、「防衛」。
僕は、「面白い」と口にすることで、自分を守っていることに 気がつきました。
 人は、状況をニュートラルなモノとしてでなく、
意味付けし、価値付けして上で、理解し、話をします。
 
・今日、こんなことがあった(・・それは、良くないこと)
・友達に、こんなコトを、言われた(・・・それは、哀しいこと)
・せっかくのチャンスが、無駄になった(・・・それは、不運なこと)
 
「(・・・)」の中は、多くの場合、口にされることはないですし
また、本人もあまりに自然にそれを感じているので、
意識化していないということもあります。
 
しかし、ほとんど全てのケースで 僕らは、
それを善いコト悪いコトに分類しています。
 
僕は、その「分類」から、ニュートラルでありたいのです。
話し手の「意味付け(分類)」に飲まれずに、そこに立ち会いたい。
 例えば
・上司に、意地悪をされたのです と聴けば、
僕は、
・この人は、上司に、意地悪をされたと状況を理解したのだな
 (=この人は、その様な「リアリティ」を認識し、体験することを、選択したのだな)
と、理解するわけです。
 
これによって、僕は、「距離をとる」ことになります。
第三者として、そこに立ち会うのです。
それをするための「儀式」が「面白い」という言葉を使うことだったわけです。
 
ここで注目したいのは、
僕が、それを「恐れ」から、行っていたということです。
 ・~ができない、~に失敗した、~がうまくいかない
だから
・哀しく、悔しく、腹が立つ
・・・ 僕は、その様な感情と、同化したくなかったのです。

悲しみ、怒り、から自由でありたかった。
 それは、僕は、それらの感情を感じることを、
自分に許可していないということを、意味しています。
自分が、 悲しみ、怒り、恐れること・・・それを、No Good と思っている。
 
その僕の姿勢は、
相手が「悲しみ、怒り、恐れること」に対して、 批判的な態度をとる・・・
という形で、現れます。
 
僕は、言葉では「感情は表に出せばいい」と言いつつ、
相手が感情を出すと、とたんに、距離をとり、「面白い」と口にし、
その様な感情を表現することを、戒める・・というコトを、やっていたようです。
相手は、ダブルバインド状態ですよね。
 
結果、 「相手が、それを、『悲しい現実だ』と認識し、そこに感情を持った事実」を
否定してしまうわけです。
 あなたの、認識は、間違っているし、その様な感情を持つことも、適切でないよ・・・ と。
 
確かに、認識を変えるコト・・・はパワフルに現実を変容させます。
有名な例ですけど、
・電車に乗り遅れた(悪いコト)
という無意識の定義付けを、
・電車に乗り遅れた(いつもと違う出来事のはじまり=チャンス)
と変えるだけで、 全く、異なる現実を生きることになります。
 
しかし、 人は、必要があって、現実を創ります。
体験する必要があって、自分で自分の現実を創っているのです。
 
無意識に、「自分は価値がない存在だ」と定義していれば、
例えば、面接で不採用になった時に、 「自分自身が価値が無いから、断られた」
という意味付けをし、 その様な、現実を生きることになる。
 もちろん、それは客観的には、採用自体が見送りになっただけ
・・・ かもしれないのですが、本人にとってのリアリティは、
「断られた」というモノなわけです。
 
それは 「自分が、自分に対して、価値がないと思っている」と気がつき
その様な、『思い込み』を手放し、より本人が、望む現実を生きるコト、
幸せな現実を生きるコトを、学んでいくための、プロセスです。
 
「自分に価値があること」を、学ぶためには、
その人は、一度、そういう現実を創り出して、感情を感じて、
その中で、見つけていく・・・必要があったわけですよね。
 
話が、大きく膨らんでしまいましたが、
というわけで、僕は、自分自身が、「不愉快な感情を感じる」ということを、
許可していくこと、自分自身がそれらを「感じていた事実」を認めるコト を、
していこうと、思ったわけです。
 
良い発見ですね~ good good goooood。
 それをしていくことで、 きっとまた、新しい地平に立てる気がします。
 
セラピストさん、ヒーラーさん、カウンセラー・・・
もしくは 子供に関わる職業や立場の人、 同じ様なことがあるかも?
・・・と思って、書いてみました。
 
長々読んでくださって、ありがとう!
ではまた!!