巣鴨のカフェで | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

・・・その先に、何があるのだろう。
何のために、生きているのだろう。

きっと俺は、何年か後、この挑戦がひと段落したら
また、同じことを思うに違いない。

もう十分じゃないか?
人より自由に生きて、満足したら良いのではないか?

そう自問して、だけど、また何かをはじめるんだ。
なぜ?
これを、ずっとやっていく意味ってなんだろう。


彼は、ふいに、話しだした。
巣鴨の小さなカフェで、ミックスジュースを飲みながら。

これから彼は、新たな職場で、新たな挑戦を開始するのだ。
だからこそ、向き合っている。

俺はね、二つの生き方があると思う。
一つは、実現を追う生き方。
目標を決め、それを実現し、またその先を見据え、それを実現する。
その「実現」こそ、人生だ・・・そんな生き方がある。

もう一つは、幸せを追う生き方。
幸せというのは、「幸福感」にすぎない。
幸福感とは、「今、ここ に 満ち足りている」という感覚のこと。
だから、むしろ「今以上を求めること」をやめた時にしか、
人は幸福になれないと、考える。
・・・そういう生き方がある。


ふーん・・・でもさ、俺は思うんだよ。
現状に満足したら、何の発展もないし、何の変化もない。
ただ自分の現状を肯定するための、常套句なんじゃないの?
人間は、今より良い場所、良い状態を目指す動物じゃないの?
それは、人間である限り、誰もが、持っている本能だと思うよ。

そうね、そうだと思う。
・・・例えばさ、明日、大切な人がいなくなったら、
自分が不治の病と宣告されたら、僕らは思うんじゃない?

「ああ、自分はなんて幸せな場所にいたんだろう」ってね。

現状っていうのはさ、生まれてから今まで、無数に繰り返した選択の結果だ。
だから、完全に自己実現がなされた結果であり、100%、自分の等身大がそこにある。
自分の人生の最前線、それが、「今」という瞬間。

だから、ここから何かを実現する・・・のではなく、
今を、実現された場所として生きるということが、まず始発点ではないだろうか。

自分が懸命に生きてきた結論が、今、目の前の現実。
だから、「こんなはずじゃない」って感覚は、基本的に間違っていて、
「こんなはずです」ってこと。

自分自身に本当に向き合って、正しく自分を査定したなら
「現状」は等身大の自分以上でも以下でもないことがわかるから、
「不満」という感覚は出てこない。
すなわち、「満足」を生きる以外に選択肢はない。
つまり、「現状に満足している=今、ここに足りている=幸せ」ってこと。
俺はそんな風に思うよ。

でもさ、そこで満ち足りちゃったら、
より良い関係を作ろうとか、より良いものを作ろうとか、
そういう欲求がなくなっちゃうんじゃないの?
おまえはわからないけど、俺は、それじゃ自分がダメになる気がするよ。

いや、本当に「今、ここ」に満ち足りてる人ってさ、
今ここが、本当に必然的に導かれたモノだと、確信しているわけですよ。
するとさ、ものすごく、その瞬間にフォーカスをして、
目の前の人間関係、目の前の出来事を、大切にすることになる。
すると、結果、関係はより良く、状況はより良くなっていくことになる。

・・・なるほどな。
確かに、そういう人って、周りにも、すごくいい影響を与える気がするわ、
そんで、いろんなことがうまくいって、結局、すごくいろいろ実現してるんだろうな。

そうね、そう思う。
僕は、そちらの生き方をしていくことが、「合理的」だと思うのよ。
そして、そんな風に生きていきたい・・・と思ってる。


二人で、ずずっとジュースをすすり、
窓の外を見やった。
僕らは、こんな話を、どれだけしただろう。
けんかをしながら、高田馬場のスターバックスで、コットンクラブで。

あれはもう、2年前のことなのか。
時の過ぎ行く早さに驚きながら、
旅立つ友を、眺めた。


あれから、成長したね、二人とも。
あの夏の日々が、なつかしいね。

・・・成長か。峻はさ、成長って何だと思う?
2年前から変化したけど、それをなぜ、成長だと言えるのか、
それを教えてほしいんだよな。


そうだなあ、俺は思うんだ、
仲良くしたい、互いに認め合いたい、愛し合いたい・・・
人間って、誰もが、そう思っている。
人間の本質は、愛と調和にあると思うんだ。
だけど、つまらないプライドや思い込みや、感情が邪魔をして、
そうできないこともある。

俺は、あれから、そんなつまらないモノを、
いくぶん、捨てることができた。
タマネギの皮を捨ててくように、素直になってきた自分を自覚するんだ。

それが、成長なの?

そうだね、成長っていうのは、むしろ本来の姿に戻っていくようなイメージかな。

じゃあ、その、いろいろいらないモノを捨てた、その真ん中、
そこにあるモノって、何なの?

しばらく、僕は考え込んだ。

うん、わからない。
きっと、昔の人は、そのわからないモノを、「魂」って呼んだんだ。
スピリット、純粋なる自己、ソウル・・・ってね。

二人はしばらく、口を閉ざして、通りを眺めた。
カフェの店員が、きびきびと客をさばいていく。
巣鴨の駅前は、手に紙袋を持った中高年でにぎわって、
春の日差しが、やわらかに人々に降り注いでいた。

君が何を考えていたのか、わからない。
でも僕は、ひとつの終わりを思っていた。

あの夏の日々は、あの未熟さ故に、もたらされたギフトだった。
毎日、けんかをして、朝から晩まで議論して、互いに顔も見たくなくなって
それでも、毎日会っていた。
僕らは、もうあんな日々を二度と過ごさないだろう。

ひとつの時代が終わったのだ。
もちろん、これからも関係性は続いていくだろうし、
二人での仕事も続いていく。

けれど、二人の形は変わっていくのだ。
ひとつのプロセスが終わった。そしてそれは、同時に始まりでもある。
僕は、改めて、そんなことを感じていた。

旅立つ友よ
きっと君は、大丈夫。
どこにいったって、持ち前の、愛されるキャラクターで、乗り切っていくだろう。
君の人生に、幸いあれ。

忙しくなるだろうけれど、身体を壊さないようにね。
いつまで続くかわからないけれど、禁煙も続けるといいよ。

異なる場所で、異なる経験をして、また出会おう。
その時、僕らの物語がどうなるのか、楽しみにしています。