最近、うちに、電子ピアノがきたので弾いている。
小学生の頃、ピアノ教室に通って、
先生の前に座った30分だけ、ピアノを弾いた。
ピアノ教室までは、サッカーボールを蹴っていき、
夢中で「フリーキックの練習」をしているうちに遅刻したり、
楽譜を忘れていくことも、多々あった。
唯一、練習をしたのは、テストの前だけ。
よく、通わせ続けてくれたと思う。
さて、というわけで、ピアノが我が家にきた。
手を鍵盤に置いてみると、指が自然に動きだす。
身体の記憶ってすごいよね、
頭ではまったく覚えてないのに、自然に、動くんだから。
僕らの身体は、記憶している。
与えられた刺激のすべてを。
優しく扱ったことも、乱暴にしたことも、
きっと、そのすべてを覚えている。
それが、僕らの生き方を決めている。
同時に、それまでの自分の生き方を映している。
さて、というわけで、毎日、ドビュッシーを弾いている。
アラベスク、唯一ちゃんと最後まで弾けた曲だ。
楽しくて、毎日弾いていたら、良い気づきがあった。
それは、ゆーっくりとメロディを弾いてみた時のこと。
それまで、自分がいかに速く弾いていたかに、気がついた。
なぜ、そんなに焦って弾いてたのだろう?
驚いた。
自分が焦って弾いていたことにすら、気がついていなかった。
身体に記憶されていた曲を練習していたからこそ、
「僕の身体運用の原型」が、そこに、浮かび上がってきた。
呼吸を止めて、身体を固めている自分に気がついた。
これが、僕の物事に対する姿勢の根本にあるモノ、
僕の人生の基調低音として響いていたモノ。
焦り。
そうか、僕は、焦っているのだ。
「こうあらねばならない」という期待を多いに背負い込み
身体を固くして、呼吸を浅くし、
味わうことなく、フレーズをこなしていたのだ。
和音がずれても、ごまかし、間違えたら、勢いで乗り切る。
どうにか弾き終えると、ほっとする・・・
そんな風に、弾いていたんだなあ。
ゆっくりと味わうように弾いてみると
その和音の美しさ、そのフレーズの豊かさが、やわらかく身体を抜けていく。
流れるようなメロディの広がりに、鳥肌が立つ。
そうか、こんな風に、人生を弾いていけば良いんだな、
間違えたって、完成していなくたって、
自分の好きな速度で、奏でていけばいい。
アラベスク、僕の唯一弾ける曲、
「自分の曲」って、思える曲があるのは、素敵なことだね。
あの頃、ピアノを習わせてくれた母に、感謝を。
きっと、弾きに帰ります。