自分という歯車を、放り込む | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。


目の前にあるのは、ひとつの機械。
たくさんの歯車が噛み合う、動作の連続体。

僕らは、そんな機械に、自分を接続します。
目の前の機械に、自分という歯車をひとつ、放り込む。
すると、その機械はこれまでとは何か違うプロセスを作動し、何かを生み出す。

僕らが世界に接するという経験・・・
・・・人と関係する、コミュニケーションをとる、ある場所に居る・・・
それは、そんな仕組みのコト。

自分を放り込む。
僕らに出来るのは、それだけ。

自分という歯車が、どんな役割を担うのか、それがどんな結果を生むのかは、
接続するまでわからないけれど、そこで何か変化が生まれるのは確かなこと。

だから、自分という要素が、その場にもたらしたモノ、
自分という歯車が創り出した、時に予想外の「作用」を受け入れ、
それを、是として、生きていくしかない。

そのプロセスをコントロールしようとすると、
必ず、機械がうまく動かなくなるんです。

その機械(相手、現場、空間)にとって、
自分は、異物かもしれないし、欠けていた大切なピースかもしれない。
保護の対象かもしれないし、哀れみの対象かも、憧れの対象かもしれない。
良い刺激を与えることも、悪い影響となることも、ある。

でもね、それを決めるのは、自分ではなく、いつだって、相手の側なのです。
自分がどんな部品として機能するのかは、相手が決めること。
歯車をいかに受け取るのか。そこから何を学び取り、いかに役立てるのか。
それは、相手の「力量」と「タイミング」、相手が今、求めている「物語」・・・
が決める領域にあるのです。

自分はどんな歯車で、相手にとって何の価値があるのか・・・
それを、自分が決めることはできません。
だから、放棄することです。あきらめること。許してしまうこと。
・自分が相手にとって何者なのか
・自分の行為が、相手にとって、どんな価値を持つのか
その「決定契機」を、明け渡してしまうことです。

もちろん、相手にとって、どんな存在でありたいか、
相手にどんな影響を与えたいか・・・
それを考え、願いながら生きるのが、人間だと思います。
少なくとも、僕は、そう。

相手にとって、大切な存在でありたい。
相手を、幸せにしたい。

その切実な想いは、接続のエネルギーになる。
そして、その想いのままに、生きれば良いと思うし、それしかできない。
でもね、その先に、必ず、自分が求めた形での関係性が生まれるわけではない。

大切な存在になれないことも、幸せにできないこともある。
善意が、相手を苦しめることもある。

それでも、相手との間に、何かしらの関係性が生まれ、
何かしらの相互贈与が行われたことは、事実なのです。
そこに、必要な形、互いに取って最適な形での、プロセスが作動した。
それは、事実。

起こるべきコトは起こり、起こらないコトは起こらない。
連なる大きな機械の中で、小さな歯車にできることは、ことのほか小さい。
必要なコトは、歯車の意志を超えて起こるのです。

だから、僕らにできることは、
自分という歯車が創り出すモノを信頼すること。
即ち、自分の「思う通り」「感じる通り」に、世界に触れ、人と交わること。

そして、結果、自分という歯車が創り出したモノを、認め、受け入れ、学び取るコト。
そして、相手に、世界に接続することで、はじめて発見できた「自分」を知っていくこと。

そうやって、自らを知り、望むのであれば、変えていくこと。
異なる変数を持った歯車になった時、
例え同じ相手とでも、異なる、プロセスを創ることができる。
違う関係性を創ることができる。

もちろん、それも、コントロールはできないけれど
ベストを尽くし、自らの在り方を、より本質的なモノへと変化させていくとき
きっと、より深く世界とつながり、より美しい関係性を築いていくことができる。

自分の行為に自分で意味付けすること、自分の行為の意味を自ら査定すること、
そこから離れた時に、僕らは本当の意味での「自由」を手にし、
本当の意味での「自存」へと踏み出すのだろうと、思います。