僕らは、よーく、アドバイスをされたり、意見をされます。
~すべきだ、~したほうがいい、~はダメだ、~しないほうがいい
そして、時に、うーむ・・・と悩む。
ピンと来なかったり、違う!と感じたり。
ピンと来なかったり、違う!と感じたり。
そんな時の対処法。
まず、
まず、
「相手にとっては、正しいコトなのだな」と、理解することです。
・人は信じちゃダメ!
・世の中甘いもんじゃない!
・もっと積極的になった方がよいよ!
そう、それを口にした人は、その様な現実を生きているんです。
それを理解する。
(詳しくは、下の理論編を読んでみてください)
(詳しくは、下の理論編を読んでみてください)
次に、自分の感覚にフォーカスするんです。
そのアドバイスや意見を受けた時に、
「違和感」や、ネガティブな感情を感じたのなら、
それは、「自分の中に、それを信じている自分がいる」ということなんです。
具体例で、説明します。
昔、僕に
「須藤君、お客さんは第一印象で全てを決めるから、良いスーツを着た方がいいよ!
それに、良い時計もした方が良い。カバンも靴も、ハイブランドものにしないと・・・」
というアドバイスをくれた人がいました。
そのアドバイスを聴いた時に、「この人、恥ずかしくないのかな?」
と思いました。
「自分の等身大の関係性を築き、一番ナチュラルな状況でコミュニケーションをすることで
信頼関係を築いていく・・・それが、人との出会いの醍醐味であり、本質でしょ?
それを、わざわざ、壊す理由って何?何がしたいの?何のために生きてるの?
なぜ、そんなにも、自分をよく見せたいの?
そもそも、どうして、相手にどう思われるか・・・がそんなに重要なの?」
・・・と、頭の中で、反論開始。ここまで、思考が一気に膨らんで、気がつきました。
なるほど。
自分は他人の評価をとても気にしているな。
服装については、たまたまフォーカスしてなかったけど
自分がどう思われるか、相手の期待に沿えているか、嫌がられてないか・・・
すごく、気にしてるんだな。
そして、そんな自分をダメだと思っている。
そう、僕が、過剰に反発した理由は、
「人の評価を軸に、自分の在り方を決める自分の生き方」への憤りだったわけです。
ここで、「気づき」がやってくる。
そうか、僕は、彼に出会って、「自分の在り方を自分で決めていく」という
今、自分が取り組んでいるテーマを教えられたのだな。
よし、そこにフォーカスしていこう!
・・・そもそも、どうして気にしちゃうんだ??・・・潜水開始です
(ここはまた、いずれ)
(ここはまた、いずれ)
僕が思うに、
これが、ピンとこないアドバイスの、一番、生産性の高い「使い方」です。
まとめます。
① アドバイスを受けた時の自分の反応をしっかりと見る。
・感情が出てくる→抑えずに、増幅させていく。
・反論が出てくる→一気にそのまま、反論します。
② 自分の反応から「気づき」を取り出す
必ず、自分が今、向き合っているテーマがそこに入っています。
アドバイスの内容というより、アドバイスを受けた時に、自分の内側に湧き出てくるもの。
それが、ヒント!
そこで湧き出てくるモノを広げていくと
上記の様に、そのまま、「今の自分に必要な気づき」につながることもあります。
また、
・子供の頃、強く禁止されて、悔しかったこと、傷ついたこと・・・
・思えば、ずーっと同じパターンの体験をしてきたこと
なんかが、出てきたりもします。
そしたら、その時の感情、感覚、自分が言いたかったことも、
全部、ちゃんと味わう。
それをやると、自分がそのトピックに向けていた
「こだわり」がなくなっていきます。
すると、その様なアドバイスを「気にする必要性」
=わざわざ注目し、意識を向ける必然性が、なくなってしまうのです。
実は、僕らはたーくさんの意見やアドバイスに囲まれていて、
その99%は無視しています。
1%だけが、気になって、立ち止まる。もちろん、シグナルを聞き取ったからです。
「何か、自分にとって、必要な「気づき」が含まれているぞ・・・」
この「気づき」を取り出してしまえば、
「気になる1%」が、99%の自分に必要のないアドバイスへと変わります。
・「あなた、これから運勢が悪いから、高級なツボを買った方がいい」
というのと、同じ程度のアドバイスにしか聞こえなくなります。
「ありがとう、でも、僕は大丈夫なので。」
それで、おしまいですよね?
それで、ひとつの体験が完了したことになります。
モヤモヤ、ひっかかる感じ・・・というのは
体験が完了していないサイン。
人の意見やアドバイス、書かれた記事や会話、
ひっかかったモノは、いつだってシグナルです。
そんな時は、
・気にするの、やめよー
も良いですけど
・なぜ、気になった??
というのも、時には良いものです。
自分の内側への探求の旅路を、愉しんでみてくださいね。
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<原理の話 ~パラレルワールドを生きるということ~>
上の話を、理論的に補足しておきます。
「須藤君、お客さんは第一印象で全てを決めるから、良いスーツを着た方がいいよ!
まず、理解する必要があるのは、
「須藤君、お客さんは第一印象で全てを決めるから、良いスーツを着た方がいいよ!
それに、良い時計もした方が良い。カバンも靴も、ハイブランドものにしないと・・・」
というアドバイスを軸に。
アドバイスは「アドバイスをしている当人にとっては、100%正しいこと」
ということです。
彼の生きてきたセカイにおいて、
彼は、「身につけるモノで、人は評価される」という経験をしてきたから
その様に、自信満々に発言をしている。
「身につけたモノのグレードが原因で、得をするコト、損をするコト」を
1回や2回でなく、きっと100回もしてきたんでしょう。
だから、彼にとってそれは、「揺るぎない経験的事実」なのです。
だからそれを「違う」といっても、はじまらない。
しかし一方で、僕は、そんな体験をしたことがありません。
もちろん、「服装」に人格は表象され、また人はそれを判断の根拠にする
ということは、よくわかる。
だけど、それによって自分が評価をされたと感じたことも
またその評価によって、得をしたことも損をしたことも、ない。
これもまた、「揺るぎない経験的な事実」なわけです。
この一見、相反する現象を説明できるのは、2つの可能性です。
① 僕が、鈍感で、服装で評価されているのを、気がついていない。
(※ =彼が、他人の評価ポイントを、大いに誤解している・・というのも同じことです)
② 僕にはそのような評価がついて回らず、彼だけがそのように評価されている。
順に見ていきましょう。
① 僕が、鈍感で、服装で評価されているのを、気がついていない。
これは、大いにあり得ますね。
僕は全然気がつかないけど、みんなは、僕を服装で評価している。
しかし・・・もしそうだとしても、「僕が気がついていない」のだとしたら、
それは「僕の生きているセカイには、存在していない」ということなのです。
ここ、重要です。
僕らの体験しているセカイ(この現実)とは、「経験セカイ」です。
僕らは「心(脳)の中に描かれた世界(意識現象)の中に、生きている」のです。
(だから、脳に電流を流すことで、実際に、色々な体験を”現実的”に味わうことができます。)
自分が見聞きしたモノだけが、僕の生きるコトのできるセカイです。
即ち、「知らないコトは、存在していないのと一緒」なんですね。
例えば、僕らのまつげに住むダニの存在を知らない人にとって、
ダニは存在していないのと一緒です。
つまり、僕にとって、「服装による評価」は、存在していないのと一緒なんです。
僕に取っては、「ない」ものを「ある」と言われているから、
さーっぱり、実感が持てない。
この事実が教えてくれるのは、
もし、「まったく同じ状況」を前にしても、
僕と彼は全く異なる体験をするということです。
現実:「第一印象がとても良かった」と言われた
→ 僕の経験:明るく話せたからだな。
→ 彼の経験:しっかりとした姿を見せたからだな。
これは、二つのパラレルな現実なのです。
実は、全く触れ合うことのない、二つの平行世界がある。
人間の数だけ、この世には、世界がある。70億個の世界があるんです。
人間の数だけ、この世には、世界がある。70億個の世界があるんです。
さて、もう一つの可能性も見ておきます。
② 僕にはそのような評価がついて回らず、彼だけがそのように評価されている。
これも、大いにあり得ることです。
彼の人格、彼の立ち居振る舞い、思考パターンや行動によって創られる人間関係において
彼は、「服装で評価された」と判断せざるを得ない状況を、いつも自分で創り出している、
という可能性は大いにあるのです。
という可能性は大いにあるのです。
一度、「身につけるモノで、人は評価される」という信念を持つと、
彼は、その後の「出会い」を、全て、この信念のもとで解釈するようになります。
自分が尊敬されたのは、良い靴を履いていたからだ・・・とね。
そして、その様な彼の周りには、「身につけるモノで、人を評価する人」が
集まることになります。「類は友を呼ぶ現象」です。
結果、彼は、
「良いスーツ、良い時計、ハイブランドの装飾品によって、評価されたり、したりする」
という現実「だけ」を、生きることになるわけです。
結果「ハイブランドのモノは、必須だ!」という信念は、より強化される。
「信念」が、「体験」を決める。
「体験」が、「信念」を強化する。
この様なプロセスが作動することで、
僕らは「自分が信じているコト」を肯定する現実だけを選択的に味わいます。
そして、他の人が見ている世界は、永久に味わうことができない。
だから、
「自分が見ている世界が、どこの誰にとっても同じ世界だ」
と誤解してしまうんですね!
繰り返しますが、
僕らが、しっかりと理解しておかねばならないのは、
僕らは、ひとりひとり、全く別の世界を生きている・・・ということなのです。