なぜ僕らは、「思い込み」を持つのか 〜ビリーフの存在意義〜 | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

最近、イラショナル・ビリーフ という言葉をよく聴きます。
誰もが持っている、
「誤った・非合理的な(イラショナル)思い込み(ビリーフ)
」のことです。
(ラショナル:正しい・合理的な/イラショナル:誤った・非合理的な)

例えば、「男性はみんな浮気をする。」という思い込み。
もちろん、浮気をしない男性もいるわけですから、この思い込みは、
「間違っている=非論理的である」=イラショナル・ビリーフと、言えるわけです。

イラショナル・ビリーフがあると、自分の体験をネガティブに解釈してしまったり、
本当は存在しないモノへと、恐怖を感じてしまったり・・・と、
せっかくの自分の可能性やチャンスをつぶしてしまうことがあります。

例えば、「誰もが浮気する・・・」と思っているから
過剰に疑心暗鬼になってしまって、むしろそれが原因で、うまくいかない 等々。

だから、“心理療法”では、この「思い込み」に気がつき、
それを解消していくサポートをしていくわけです。

なるほど。良い感じですね~

でもね、当然の疑問が出てくる。・誰が、どんな基準で、
正しい(合理的)・誤っている(非合理的)を決めるのか?
もし、その「正しい」を、「社会的に正しいコト」と置くのなら、
それは単なる、常識に当てはまる生き方の推奨でしかありません。

例えば
・親は尊敬すべし(ラショナル 正)/親など他人(イラショナル 誤)
・和は尊ぶべし(ラショナル 正)/わがままに生きる(イラショナル 誤)
・上司が帰るまで、オフィスを出るべからず・・・(・・・?)

論ずるまでもなく、「これ、違うな・・」とわかりますね。

では、「その思い込みは、正しい/間違っている」と判断するポイントは
どこにあるのでしょう?
実は、この問いは、近代哲学の重要トピックのひとつなので、
詳細に論じたい・・・のですけど、結論だけ。

人間が従っているのは、
・客観的、論理的な、正しいコト、本当、真理ではなく
・自分にとっての、主観的な正しさ、本当、真理に過ぎない。
ということです。
科学的な事実ですら・・・です。

ですので、思い込みが「正しい」or「間違っている」というのは
・本人が望む人生を歩むために、必要・不必要のこと
だと、考えて良い。

だから、例えば本人が、
・良い男性と結婚したいと望んでいるのなら
・男性=浮気する!という「不要な」思い込みを取り除けば良い。
そう思っていないのなら、それは取り除く必要がない。

あくまで、「本人の希望」にとって、邪魔かどうか。
この基準で、ラショナル(正)orラショナル(誤)を切り分ければ良いわけです。

うんうん、良さそうです。


しかし、実は、まだ疑問が残るんです。
「本人の意志通りに、生きるコト」は、手放しに素晴らしいコトでしょうか。

例えば
・本人が、誰かを殺したい
と望んでいるのなら
・殺人=悪いコト
という思い込みを取り除くというのが、正解だということになります。
でも、「それは、悪いことだから・・・」と言いたくなりますね?

・・・さて、この「悪い」は、誰の評価でしょう。
もちろん、「社会」です。
そう、ここで、「社会的な規範=一般的な正義=常識」の持ち出しが、
唐突に行われてしまう。

実は、「正しい or 間違っている観念」の話や、
「やりたいこと、実現しよう」という話は
「社会的に正しい価値観 VS 個人の正義(欲望)」という答えの出ない議論に行き着き、
結局、「バランスだよね!」という、身もふたもない結論になりがちなんです。
(もちろん、この論点を深めていくと、哲学的な深ーい話があるですけど、
僕らの日常的な思考のレベルで、それは、ほとんど、なされない
という意味です)

そこで、この思考のピットフォールから出るために、視点を変えてみます。
ここでは敢えて、その理路の是非は説明しないので、ひとつのアイデアとして、
眺めてみてください。

その視点変更とは、物事の順序を反転させてみるということです。

即ち、
・「誤った思い込み」が「望まない体験」を創るのではなく、
・「望まない体験」をするために、その「誤った思い込み」を選択・所有した。
と考えることです。

とりあえず、「ふーん」と思って、ついてきてください。 

ではなぜ、「望まない体験」をわざわざ、するのでしょうか。
もしそんなことがあるのなら、その目的はなんでしょう。
それは、その人の「テーマ」を学ぶためです。

テーマとは、
・その人が成長し、より豊かに生きるために必要な学びのトピック
のことです。

例えば、「愛を学ぶ」というテーマを持っているのなら
「愛なんてない!」という「思い込み」を用い、
そのビリーフによって「愛の不在」を実際に現実化して体験します。

実際は、愛されているのに、それを信じない・・・とか
「愛なんて嘘」と発言することで、本当に、愛されない・・・等々。
そして、その現場で自らと向き合いながら「愛を学ぶ」のです。

この様に、観念を「解消するべきブレーキ」ではなく、
「必要な現実を体験するための、雛形」と考えることで
「本人の意思の通りに生きるために、不要な観念を解消する」という考え方の課題、
・本人が不要だと決めた観念を解消することが、本当に、
 本人と社会の利益につながるのか・・・
という論点自体が、無効化されるということです。

観念とは、そもそも、解消したり、手放したりするモノではありません。
現実を創り出して、そこで学びを完了することで役を終えた観念
(思い込み)が、自発的に消えていくのです。
お役御免、お疲れさま!ありがとう&バイバイです。

一見、観念ソノモノを手放している様に見える場合も、
基本的には、同じ仕組みが作動しています。

例えば、「親は絶対!」という思い込みがある場合、
セラピーや友人との会話や、ある瞬間に、心の底から、
「そうか、違うんだ」と思えた・・・としたら、
それは「親は絶対・・・という思い込みによって生成された現実」を思い出し、
その場で再体験し、そこから「学び」を得ているということです。

結果、観念が消えていったのなら、
それは「テーマを学び終え、もうその観念は不要になったから、さよなら」
ってことですね。

全ての観念は、「必要」だから、存在しています。
そこに、ラショナルもイラショナルもない。  
良い観念、悪い観念 というモノも、ありません。
本人にとって、必要な観念、不要な観念というモノもありません。

良い体験、悪い体験、成功と失敗というモノも、ありません。
ただ、自分が自分のテーマを学ぶために必要な体験があり、
その体験を創るための素材として観念がある。それだけです。

さて、この視点で見る世界観をさらに見ていきましょう。
先ほどの例をつかって。

《新しい世界観》
状況:誰かを殺したいと望んでいる
↓              ↓
・「人を許すこと」
というテーマを学ぶために
・殺人=悪いコト
という、観念が機能し、「殺したいほど憎いけど、殺すことはできない」という、
困難な現実を創り、その矛盾を見つめ、矛盾に向き合い、
それを統合していくという「人間的な試み」をしていくことで、
自らの成熟と、新たな視座を持つ、新たな私へのシフトを促す。
このプロセスは、「許容」 というゴールに辿り着くことで、
完了するのでしょう。

もう一つ。
状況:誠実な男性と結婚したいと望んでいる
↓               ↓
・人と自分を信じる
というテーマを学ぶために
・男性=浮気する
という観念を使って、
「きっと、浮気しているに違いない → 携帯電話を見る → それがばれて炎上」
というプロセスを踏み、
「互いに真剣に気持ちを伝え合う」という体験の現場で、
自分の中にある「人を、自分を信じられない」というテーマに思い至り
そこに、向き合っていくことで、成長していくプロセスに入っていく。
ゴールは、「信頼」でしょうか。 

この学びのプロセスは、時に、それは、苦しかったり怖かったりするけれど
それすら、自分にとって、最適な学びの場所なのです。
(もちろん、愉しかったり、面白かったり・・・というのも、
全く同じだけあるし、全く同じ仕組みです。
今回は、ネガティブな部分を取り上げましたけど・・・)

この様な視点に立つと、自分の中にある「観念(ビリーフ)」を雛形にして、
「意識的に」現実を生成していくという、主体的な人生観が見えてきます。
・全ては、学ぶために、自らが創り出した契機である。

自分にとって、良いコトも、悪いコトも、悲しいことも、うれしいことも
同じだけ、意義があり、意味があります。
そこに懸命に向き合うのならきっと、新しい自分、より純粋でより美しく
より私らしい私へとつながる道が続いています。

自分が創り出した、自分のための学びの劇場を、愉しみましょう。
せっかく創った自分だけの作品、存分に味わなくちゃ、損ですね!!