たがために生きるのか | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

先日、あるインタビューにて、「何のために、生きていますか?」と 問われたので、「自分のために生きています」と答えた。 「それで幸せですか?」と聞かれたので、僕は、「幸せです」と答えた。 強がりでも、天の邪鬼なのでもなく、僕は確かにそうだと思って生きてきた。 その時に僕の頭の中にあったことを、書いておこうと思う。

僕の体験から、話を始めたい。
きっと誰もが経験したことのあるシーンだ。 僕はコンサルタントとして、ある会社の会議に出席していた。 会議室は熱気に満ち、いつにもなく議論が飛び交う中、出席していた女性新入社員のAさんは、空気に飲まれてしまって、全く発言をできないでいた。会議の間中、彼女は、話にうなずいたり、メモを取ったりと、終始聞き役に徹することになった。
会議の後で、「全然話せなかったです~」と口にして落ち込んでいた彼女に、僕は「Aさんのおかげで、生産的な会議ができたよ」とお礼を言った。お世辞でも、もちろん励ましでもなんでもなく、本当にそう思ったからだ。実は、真剣に目を見て聞いてくれる彼女の存在が、みんなのスムーズな会話を導き出す、非常に重要なファクターとなっていたのだ。

彼女には、「会議の円滑な進行をサポートする役割を担おう」なんていう意志は一切なかった。しかし、懸命に、自分のできるコトを行った結果、最高のギフトを僕らにくれたのだ。ここで見えてくるのは、ある行為が「役にたったかどうか」は、それを本人が「意図した行為」なのか、「意図していない行為」なのかと、関係がないということだ。役に立ったかどうかは、本人の「気構え」とは、実は関係ない。「ありがた迷惑」なんて言葉がある様に、案外「あなたのため」と言われて、困るケースも多いのだ。
そしてもう一つ。 彼女のおかげで、調子良く飛ばす僕に言いくるめられてしまった相手にとっては、彼女の行為は「役に立った」どころか、「有害」でしかなかったかもしれない。つまり、誰かの役に立つ行為は、反対の立場の人間を必ず窮地に追い込んでしまう。だから、「みんなの役に立つこと」など、存在しないと言える。

しかし、それは、裏を返せば、「誰かの足を引っ張ること」ですら、反対の立場の人の「役に立ってしまう」ということなのだ。 つまり、人間は、何をしても「誰かの役には、立ってしまう」のだ。 僕は、それを、とても希望的なことだと思う。 なぜなら、「人は、生きるだけで、誰かの役に立っている」ということが導かれるからだ。

確かに、「誰かのために生きるコト・誰かのためにする行為」は、すばらしい。でも、それは論理の経済によって必ず「自分のために生きるコト・自分のためにする行為」という”枠組み”を導き出してしまう。「誰かのため」を力説すればするほど、「自分のため」を貶めてしまう。
しかし、今、必死で、どうにかもがいている人、余裕がなくって、「誰かのために」なんて言えない人、そんな人は、「ダメ」かというと、僕は、そんな訳がないと思うのだ。 本人が気がついていないだけで、間違いなく誰かを支え、救い、助けている。 例えば、そこに立っているだけで、誰かへの風を防ぎ、そこに居るだけで誰かの孤独を癒しているかもしれない。冗談じゃなくて、本当に、あなたの覚えてもいない一言が、誰かの悲しみを和らげ、何気なく押した「イイネ」が、誰かの命を救うかもしれない。 もし、目の前の誰かの役に立てていなくたって、きっと、セカイのどこかで、あなたに助けられている人がいる。
人間は、そこに存在しているだけで、誰かにギフトを贈っているのだ。 誰もが、誰かにとって、価値がある存在である。
価値がない人間は、「論理的」に存在しない。 あなたが生きていることは、それだけで、ギフトだ。 谷川俊太郎は、「あなたは、愛されることから逃れることができない ※」と書いたけど、僕は、「あなたは、誰かの役に立つことから逃れることができない」と綴りたいと思う。僕は、懸命に生きる。自分のために、懸命に生きるだけだ。 それが、いつの日か、セカイの誰かに届いて、その人生を少しでも明るく照らすことができたら、この上ない幸せだと思うのである。

※ 谷川俊太郎 「やわらかいいのち」5番  「詩集 魂のいちばんおいしいところ より」