自立を辞書で調べてみると「他からの支配や助力を受けずに、存在すること」と書かれていました。

 この「他」を子どもたちの置かれた状況で考えてみると、身近な家族、教師、友人、などが最初に浮かびます。

 「その他からの支配や助力を受けない」という事は、

・誰々に言われたからする
・誰々に助けてもらってする

ということではなく、自分で考えたり、自分一人でやったりすることになります。

 自立が進めば、自分で考えたり、自分一人でやったりすることが次第に増えていきます。

 その姿を私たち育てる側は、望んでいます。そして、育っている姿を見るたびに嬉しくなります。
 ただ、この時、子どもへの愛情から、手を差し伸べたくなった時、つい手を出してしまうこともありますが、それが自立を妨げている事に気づかないでいることがしばしばあります。

 子どもへの期待があると、

  もっと早くしてほしい。
  もっとうまくしてほしい。
  もっと考えてやってほしい。

 などとちょっと欲が出てしまいます。

 この時、子どもが同じ欲をもっていれば、これは、自立になります。また、この気持ちを察して動くことも自立になります。

 こちらの願いを強引に押しつけたり、誘導したりすると自立から遠ざかることになります。

 もし、この時、押し付けでも何でも、今必要だし、これをしないと次に進めないなどと考えて手を差し伸べたとしても、これは育てる側の一方的な思いでしかありません。

 子ども自身が考え、判断できる時間を与えることが必要になります。「そんな悠長なことは、言っておられない。」と感じるかもしれません。

 ここには傲慢さがあるのではないかと感じることが多くなりました。

 育てる側に相手を未熟だと思い、依存や支配の関係で成り立っているため、対等な人間としての関係が築けないために起きていることだとなかなか考えられないのではないでしょうか。

 子どもなりに、困っている相手だったら、何とかしたいと考えます。助けてほしいと願っていれば、何とか助けようと動こうとします。

 経験が少ないために、うまくできなかったり、動き方がわからなかったり
することはありますが、その気持ちはもっています。

 困っているから、助けよう。
 仕方ないから、手伝おう。
 悲しそうだ。(苦しそうだ。)何とかしたい。

 この思いが、行動に結びついたとき、自ら判断し、自ら考えて、行動したことになります。

 相手を察することをせず、自分の思いばかりを伝えていると、子どもは、その姿を真似ます。

 つまり、育てる側が子どもの思いを考えず一方的に伝えるから、育つ側も一方的になっていくのです。

 子どもを察することをするから、子どもも私たちの思いを察して動いてくれるのです。

 この関係を築かないから、自立が遠ざかると考えたのです。

 目の前の行動に振り回されることなく、その行動の裏にある子どもの温かい、豊かな心を察するところに着目したいものです。

 きっと子どもを素晴らしい一人の人間として見ることができると思います。