私たちは、自分の道を究めるために、自分を磨きます。
 磨くためには、余分なものをそぎ落として光輝くようにします。
  
 見た姿が光って見えますが、自分の道を究める場合は、表面だけでなく、その内面さえも磨かれていきますから、深い理解が伴っています。

 一見究めると主義主張をすることのように考えられがちですが、私は、そうではなくて、何事も取り入れていくことが深い理解につながる磨きだと考えています。

 主義主張をすれば、必ず、その主義主張と合わない力が働きます。これは、違いを明確にすることになりますが、受け入れられるものと受け入れられないものとを作ることになります。そして、どちらかの立場を取れば、一方は取り入れられないという状況になってしまいます。


 そうではなく、どちらの立場も受け入れる柔軟性を発揮することが、本当の意味での深い理解ではないかと考えています。


 これならば、どの立場でも受け入れることができます。
そして、受け入れることができないののは、未熟な自分だからだと考えることができます。
 
 善があれば、必ずその裏には悪があります。正があれば必ずその裏には、誤があります。

 コインの裏表のように切っても切り離せません。

 

 子どもは正しいこともすれば、間違ったこともします。善行もあれば、悪行もあります。

 どちらも受け入れられる立場をとるということが必要です。

 正しいから受け入れられ、間違いだから受け入れられないとなると、正しい事を言ったりやったりする子どもだけが、教師から受け入れられることになります。それでは、間違った子どもは受け入れられないことになります。

 また同様に、善行をする子どもは認められ、悪行をする子どもは否定されていくことになります。悪行をする子どもは受け入れられないことになります。

 私たちは、どちらの子どもも受け入れるために自分を磨くのだと思います。

 正しい事をする子どもだけを受け入れて授業が進むとなれば、一部の子どもだけの授業になってしまいます。善行をする子どもだけを受け入れる学級経営をすれば、一部の子どもだけの学級になってしまいます。

 どの子も生かすためには、より深いところで両者を受け入れる自分になるまで磨かなければ、受け入れることができません。

 どの子も成長の過程にいます。善悪、正誤はつきものです。ですから、両者を受け入れる自分でなければ、切り捨てをしながら、教師を続けることになります。

 誰もがよりよい生き方を目指しています。でも、その過程には、誤もあれば悪もあります。

 それを受け入れることが無理のない授業になったり、学級経営になったりします。

 子どもを裁く前に、教師の柔軟性を問う事になります。

 子どものせいにしないで、自分自身を磨く事で、子どもを救うことができます。

 日々精進です。

 どの子も受け入れられる自分・・・・これは、簡単ではありません。後悔の連続です。

 まだまだ、自分の価値判断で人を裁いている自分があります。なかなか抜け出せられない未熟さを感じながら、生きています。