私たちは、子どもたちを育てる仕事です。育てた証拠は、子ども状態の変化となって現れます。
 私たちは、この変化を見て、「この子は育った。」と判断しています。
つまり、変化のとらえ方次第では、成長のとらえ方が違ってくるということになります。

 指示命令をして、行動が変わることがあります。それでは、これを成長ととらえることができるでしょうか。
 
 これを成長ととらえる教師はいないと思います。

 それでは、何が変わると成長としてとらえることができるのでしょう。

 行動を変える背景に何があるかということが重要になります。

  「先生が言ったから~をした。」という子どももいます。
  「先生が怖いから~をした。」という子どももいます。
  「先生を信頼しているから、~をした。」という子どももいます。
 
  もし、これらの理由で行動が変わったとしたら、一時的な行動の変化でしかありません。

 これでは、成長ととらえることができません。

 よく担任が変わると行動が変わってくる子どもがいます。
これは、担任教師に依存していた子どもの姿ということになります。
これは、成長とは言えません。
 
 私たちは、教師の力量を目の前の子どもの姿で判断してしまいますが、本当に力のある教師は、教師が去っても、子どもの行動の変化が変わらない子どもに育てる教師だと思います。

 つまり、子ども自身が自ら判断し、行動できる変化をもたらした教師こそ、力量のある教師だということです。
 
 先生がいようがいまいが、関係ないのです。子どもが成長したから、自らの力で歩むことができるのです。

 それでは、この力量のある教師は、何を変化させたことになるのでしょう。
 
 行動の裏にある内から湧き上がる感情を変化させたことになります。

 例えば、掃除です。
 部屋を掃除してきれいにした時、気持ちよい感覚があれば、きれいにしたいという感情が生まれます。
 教師が掃除をしなさいと言ったから掃除をしている子どもには、この感覚がありません。ですから、きれいにしたいという感情が芽生えません。
 でも、綺麗になった教室が居心地がよいと感じるまで掃除の指導をし続けたならば、子どもは、きれいにしたいという感情が生まれます。
 この感情をもてば、教師がいなくても、教室が汚れていると気になる子どもになります。ですから、自分からごみを拾ったり、物を整理したりして教室をきれいにし続けようとします。

 学年末を迎え、教師のいないときの子どもの姿を見て、どんな子どもを育てたのか振り返ってみると自分の力量が見えてきます。