自分は正しいと思っていることは、どんどん自分で事を進めていきます。逆に少し自信がないということは、進めることに躊躇します。
 
 この判断一つが事を進める上で重要な役割を果たしています。

 自分で判断できないときには、人に頼ります。

子どもたちは多くの場合経験が少ないため、頼ることことは当たり前として捉えています。

 これが意図的に行われているのではなく、無意識のうちにしているため、頼っていることさえ、気づいていないことが多いようです。

 感覚的にいいと思ったことを受け入れています。その根底には、相手との信頼関係があります。
 そして、信頼しているから誤りはないというように信頼することと受け入れることが一体となっています。

 ですから、子どもが親に似るのは、当然といえば当然です。

 私たち教師は、親以上の関係を子どもと築くことは、できません。しかし、その努力をします。そして、その成果が1年間の努力として子どもに受け入れられて、今、目の前にいる子どもの姿となっているのです。

 このように考えると信頼関係を築くことは、考えを受け入れてもらうための近道となります。逆にこの信頼関係が築けなければ、なかなか考えを受け入れてもらえないということにもなります。

 子どもたちが、「そんなことをしていると、嫌われるよ。」と言われないために、相手に合わせるという行動をとるのも意味があるのです。

 いくら、「あなたはあなただよ。」とか、「人はみな違っていていい。」などと言っても、子どもには通用しません。違っていることは、不安につながります。その不安を乗り越えて、違うことをしたり、言ったりすることはできません。違えば排斥されるか、強要されると考えているのですから、子どもにとっては、脅威となります。

 一緒だと安心するのが子どもなのです。違っていても安心できる時は、違うことが当たり前となっている環境の中にいる時です。

 山の頂上を目指す道はたくさんあります。しかし、目指す頂上は一緒だという考えがあると子どもは、自由に山登りができます。この道しかだめだとなると揃えることで精一杯になり、自由に山登りができません。

 違っていてもいいという視点をどの場で設けているかが、その教師の力量につながります。

 掃除の仕方を揃えます。本当に揃えなければならないのでしょうか?きれいにしたいという願いがあれば、仕方が揃っていなくてもよいかもしれません。

 学習の準備をそろえます。本当にそろえなければならないのでしょうか?この時間にこれだけのことを学ぼうという願いがあれば、自然に揃うことはないでしょうか?

 違いを受け入れられないのは、ひょっとすると教師側にあるのかもしれません。