一人一人を大切にしながら、教育活動を進めていくことは教師として当然しなければならないことだ。しかし、個々の能力に違いがあり、一律には力をつけることはできない。これは、学力だけではない。生活する上で必要な力すべてに言える。
 本来、学校教育で行うことではなく、家庭で躾ることであっても扱わなければならないのは、この個人差があるからだ。ある程度相手を大切にし、思いやる心が育っていないと、話を聞くこともできず、自分勝手な行動を優先してしまう子がいる。いつもいつも人の話が自分の興味関心に合ったものばかりではない。それを聞くには、多少の我慢強さが必要となる。一つの事が終わったら、すぐに話しかける子がいる。相手が済んでいようがいまいが関係なく話しかけるこの姿には、思いやりを感じない。だから、教師が話しかけてもすぐに伝わらないことがある。聞く指導をしなくてはならないのは、こうした個人差があるからだ。学校ですべきことと家庭ですべきことを分け、「これは家庭ですべきことだから、聞かない子どもが悪い。」と考えて、指導しなければ、授業の効率が悪くなる。どんな子どもであろうと、力をつけるのが私たちの仕事であり、その努力を欠いたら教師失格である。力がついたかどうかは、別であるが努力をしなければならない。
 もし、家庭の問題だと片づけて、見捨てることがあれば、子どもたちからどんな教師として映るか。ここが一番問題だ。子どもに問題があると考えていると、授業の中で挙手しない子には、指名しない。聞いている子だけで授業が進む。他事をしている子どもを見過ごす等・・・これは、子どもたちからすると「無視をする先生」であり、「差別する先生」と映っていく。「あなたが悪いのだ。」と言っても始まらない。
 「どの子もクラスの仲間だ。」「みんなで一緒にできるように頑張ろう。」「心を一つにして助け合って頑張ろうよ。」などと思っているとこれは家庭の問題だからと片づけられないで、「どの子」にも目を向けながら、授業を進めることになる。手を挙げていない子どもの事を心配し、指名してみる。友達の意見に反応しないでいると「わかったの?」と尋ねてみる。これらは、「どの子」もできるようにしたいという願いがあるからできることだ。そして、この対応が子どもには、「優しい先生」であり、「大事にしてくれる先生」と映っていく。教師が誰にどんな言葉かけをするか子どもは常に見ている。それも自分を中心に見ている。だから、忘れられている存在や無視されている存在と感じたときから、子どもは教師から離れていく。これを避けるためには、常に「あなたを見ているよ。」とサインを送り続けることが必要だ。具体的には、常に「どの子も私を見ているだろうか。」「どの子も分かろうとしているだろうか。」「どの子も指示通りにしているだろうか。」と子どもから目を離さないでいることが大切になる。授業中に机間指導をするのもそのためだ。教師用の机に座っていて子どもを見ることは、できない。「どの子も~かな。」という思いを大事にしていると自然と子どもの側に足が向く。ただ、子どもの回りを回って机間巡視をするのではない。「わかっているかな。」「みんなと同じように進めているかな。」と子ども一人一人を思いやる気持ちで側に立つのだ。だから、側に行くと指導ができるのだ。「あなたを大切にしたいから側に来て、話をしているんだよ。」になる。決して監視をしているのではない。