よく酒を飲む仲間とよく行く居酒屋にいる。腐れ縁で高校の頃から付き合って
いる悪友の阿久はもうつぶれていびきをかいている。
それにしても目の前にいる彼女は何を言っているのだろうか?
お酒が回っているせいか、それとも体験したことのない経験からか、周りの状
況がうまくつかめない。
「うん、久々にお酒を飲むのだが、こうも気持ちよくなるものだとは知らなか
ったな。」
頭が回るように感じる。今さっきまで馬鹿な飲み会が繰り広げられていた。
その馬鹿な流れを作っていた同じ大学同ゼミの友人達も固唾を飲んでこちらを
みていたり、口々にはやし立てたりしている。
「それで、名成君、先ほどの私の質問に答えてほしいのだが。」
冷静に、それでいてアルコールのせいか、妙に熱っぽく、潤んだ瞳がこちらを
眼鏡越しにのぞいている。
指笛が鳴らされ、囃し立てる声がいっそう大きくあちこちで起きる。
「な、なんだったっけ・・・?」
いやな汗が沸いてきた。そもそも目立つ要素もなく、日々平々凡々と生きてい
る俺にとって、こんな舞台は荷が勝ちすぎている。逃げたい。
「そうか、君は私にもう一度胸躍らせる台詞を口に出させてくれるのだな。な
んと君は奥ゆかしい人間なのだろうか。やはり君のことを好きになって間違い
はなかった。」
どうやら酔った勢いの冗談ではないようだ。言われてみれば、和美さんはそう
いう冗談からほど遠い人間だと常々思っていたし、またその通りだという周り
の評判もあった。
一見するときつそうな性格の顔立ち、かといって派手さはないがよく見ると整
った細面の顔が視線を外さずこちらに向けられている。
「ではもう一回言うぞ。私はどうやら君のことが好きなようだ。ここ最近君の
ことをみていて実感した。そうでなければ、私のように嫌われている人間が、
恥を忍んで君たちの集いにお邪魔するような、そんな恥知らずな真似はしなか
っただろう。そこを敢えて席を同じくしたのは君に対して私の思いを伝えよう
と言うごく個人的かつ非常識的なことだ。言っておくが、これは酒の勢いでは
ないぞ。もちろん酒の勢いを借りているところもあるが、それはきっかけにす
ぎない。その上で君に判断してもらいたい。私はこんなつまらなく、馬鹿で考
え無しの人間であるが、どうか君と付き合わせてもらえまいか?」
再びあのすべてを見透かすような目がこちらに向けられる。
不思議な理論によって武装された彼女の告白は、本人以外その正当性をみとめ
ないものではあったが、何よりその勢いによって周りの人間を黙らせた。
彼女が今まで一人もいないという事実、女性から告白されるという状況。何よ
り周りの雰囲気がその状況を拒否する事を許さないように感じられる。
僕は頭を下げ、「喜んで」と声に出した。

一つ驚いたことがある。
あまりいつも話さない彼女、勝呂和美さんとつきあい始めたその日、彼女は酔
いつぶれた。いつもと変わらない口調で、いつもと同じ視線を向ける彼女に告
白され、首を縦に振った後、彼女はさらに酒を飲むペースを速め、焼酎のボト
ルを一人で1本開けた。自慢じゃないが、俺もその位飲めるし、彼女もそんな
ものなのだろうと思っていた矢先、悪友が「勝呂さんって結構お酒飲めるのだ
ね」とかけた質問の答えを聞いて彼女を除く一同に不安がよぎった。
「いや、お酒は飲むのが初めてだ。気分次第で美味しくも不味くもなる、と以
前小説で読んだが確かにその通り。今のお酒はおそらく世界で一番美味しい。」
それからというもの、周りが勝呂さんの飲むものをサワーに変えさせ、店員さ
んに薄目にと繰り返す一同と敏感にアルコール濃度を感じて「これは薄い気が
する。すまないがもっと味の濃い物を頼む。」という彼女とのやりとりに終始
し、最終的には「さて、もう寝るか」という言葉共に俺の太ももを枕代わりに
すると可愛らしい寝息を立てて眠りについた。
その残された僕らは、一種の安堵感と倦怠感に包まれたまま、途方に暮れる。
誰も彼女の家を知らない。以前実家は神戸で今はアパート暮らしだと言ってい
たことを教授とやりとりしていたのを聞いた、という女友達は「今日は彼氏が
きているからウチ無理」と言い、もう一人同席していた女友達からも「これか
ら彼氏と落ち合うから無理」といい、男友達の家をアテにしようとすると「い
や、ありえないから」と男一同が口を揃えた。酔い潰れた女性をカプセルやサ
ウナに突っ込むのもあり得ないし、悩んでいると「ていうか、どう考えてもあ
んたの家でしょ」とこれもまた一同が口を揃えた。
それが良くないからこんなに悩んでいるのに・・・年頃の女性を・・・とまだ
救済を求めている俺に向かって、「彼女の世話くらい彼氏が見ろ」という至極
もっともで酷く理不尽に思える答えが帰ってきた。
彼女は幸せそうに寝息を立てているまま。
女性は軽いと思っていたが、酔い潰れて寝た人間は重いものだと下宿のアパー
トの階段を背に負いながらつくづく感じた。
最初は確かに、あぁ、おっぱいの感触が背中に・・・とかはあったが、それも
2,3分で腕にかかる彼女の体重と足取りの重さでかき消された。彼女を落と
すまい落とすまいと重いながら部屋についたときは汗だくで、彼女をベットに
寝かしつけ床にごろりと寝ころぶとそのまま寝てしまった。その日の夢には彼
女のブラウスの第2ボタンとベルトを緩めるときに見えた白い肌が踊る中、彼
女がいつもの調子でこんな時位は何かしても良いのだぞ、と俺に向かって、少
し恨みがましそうな目で言い続けるシーンが延々と続いていた。

目を覚ますと、なぜかベッドに寝かしつけたはずの彼女が隣に寝ている。しか
も半裸で。
思わずブラウスをはだけ、長めの巻きスカートを放りだし、夢と同じ白い肌と
薄いブルーの下着をちらちらと見せながら寝息を立てている彼女から目を離す
ことが出来ず、かといってどうこうするという考えも起こらずドキドキしてい
ると「おはよう」と言う声に驚きびくっとしながらそろそろと声の主に顔を向
けた。
「お、おはよう・・・」妙にうわずった情けない声で朝の挨拶をするといつも
と変わらない彼女の顔があった。
「昨日は申し訳ない。君に色々と迷惑をかけてしまったようだ。あまり覚えて
はいないが、とりあえず謝っておく。」
「あ、あぁまぁ…気にしないで…」我ながら間の抜けた声だったと思う。「あ
の、服さ…あの…脱いだの?」
「覚えてないが、多分寝ている間に脱いだのだと思う。いつも寝るときはこん
な格好だし。」
何だろう、こちらの方が恥ずかしくなっていくのは気のせいだろうか。顔が上
気していくのが自分でも分かる。
「どうした?」彼女の声で我に返ると、途端に何か今の状況が嘘くさく、誰か
の悪戯ではないかと思えてきた。悪友の阿久 悠の顔が浮かぶ。ここまで酷い
仕打ちを受ける覚えはないが、阿久ならあるいはやるかもしれない。
そうだ、あるわけがない。俺は特別何を出来るわけでも、格好が良いわけでも、
お金を持っているわけでもない。ただの学生だ。何を好きこのんで俺などを選
ぶのだろうか。あり得ない。今の状況はあり得ない。そうに決まっている。こ
の子供の頃からの思考回路は間違えがない。この考え方で今まで痛い思いをし
たことはない。俺を笑うために作られた状況。どうせ後で笑い話になるんだろ
。頭に悪友の阿久 悠の顔が浮かぶ。ここまで酷いことをするとも思えないが
、考えられるとしたらあいつの悪戯だ。おまえらみんな死ねばいいのに。つい
でに俺も死ねばいいのに。
困惑が怒りに変わる。
震える声で俺はせめて一矢報いてやろうと声を絞り出す。
「勝呂さん、昨日の飲み屋のこと覚えてる?」
「あぁ、覚えているとも。私の記念日になるな。」
さらっと返す彼女。どっきり大成功の記念日か。毎年俺は笑いの対象として祝
われるのか。
「そのことなんだけど、どうせどっきりだろ?ありえないじゃん。俺みたいな
の。どうせ阿久あたりが言い出したんでしょ?」
「何を言っているんだ?私の気持ちは昨日言った通りだ。確かにお酒の力を借
りたのは引き様だとは思ったが、ああでもしない限り後で公開すると思ったの
でそうした。それとも、その後迷惑をかけたので愛想が…その…尽きてしまっ
たのか?」
彼女の真摯な眼が向けられている。心なしかいつも見ていた冷静な目ではない
様な気がした。「尽きたとか尽きないとかじゃなくてさ、本当に勝呂さんが俺
を想ってくれているとは想えないんだ。勝呂さんだって好きでもない男の部屋
で、その、そんな…格好したくないだろ。早くこんな部屋から出て行きたいん
だろ?いいよもう、みんなで笑えば良いじゃないか。俺を笑えよ。何をすると
笑える?勝呂さんの、その…下着を見て襲えばいいの?携帯オンになっている
んでしょ?すぐ近くで阿久とか待っているんでしょ?取り押さえるんでしょ?
ほらもう大学いけないじゃん。性犯罪者出来たよ。一生もうねーよな!日陰で
カマドウマみたいに暮らすよ!ほらおもしれ!駄目人間おもしれ!笑う!俺笑
われる!あはははは…」
「君は何を言っているんだ?」
「あははははははははは…」
壁のカレンダーに集中し、彼女を視線に入れない様に、僕は自虐の笑いを続け
る。
「…その、全ての意味は分からなかったが、やはり君は優しい。好きでもない
私に対して交際を断るのに際しても、傷つけない様に親友の名前を出してまで
私のショックを和らげようとするのか。」
「あはははははは…」
「だが、そんな気遣いは無用だ。君の…気持ちは大変嬉しいが…私はこういう
事に慣れて…いるからな。そういう気遣いは…私以外の…その…君の好きな人
に向けるといい…ぞ…」
詰まり詰まり紡ぎ出したその言葉は、彼女の先ほどまでの声の調子とは違った。
思わず背けていた顔を彼女に向ける。
「ありが…とう。一時だけだったが…とても素晴らしい気持ちにさせてくれた。本当に…あり…」
彼女は微笑みながら、一生懸命口を動かす。それまで高ぶっていた俺の気持ち
が一気にしぼんでいく。いそいそと衣服を直す彼女の頬には光る物が伝ってい
た。
何も出来ず、ただ見守るだけの俺。「それではお邪魔した。気にしないでくれ。
私は平気だ。」既に口調は戻っていたが、彼女の姿が玄関の扉に遮られるまで、
その顔がこちらを向くことはなかった。その週末は何もする気が起きず、ただ
日が暮れ、明けていくのみだった。

週が開け、大学が始まる。しかし部屋からは出ない。
高校の時と同じ。何かあれば外に出なければ良い。非生産的で、怠惰で、ぬる
ま湯生活の何が悪い。そう考える性格だから高校ではいじめられたのは理解で
きる。しかし、なぜ大学に入ってまでその様な仕打ちを受けなければならない
のか。など考えながら、ひたすらTVゲームに打ち込む。
俺は真人間にはなれないよ。この前までは良い感じで自分もみんなもだませて
たんだけどなぁ…
考えるたびに落ち込む。鬱になるのが分かっているので考えない様にする。TV
ゲームだけが陰気な音楽を流し続けている。
もう何日経ったのか、何も食べず、水だけ飲む生活がどのくらい続いているの
か。TVの中では延々と仲間を呼ぶ悪魔を作業的に殺していくゲームが流れてい
る。

ポチポチポチポチポチポチポチポチポチ…
くびをはねた
13回ヒット
くびをはねた
くびをはねた
21回ヒット
17回ヒット
くびをはねた
ポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポ
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チポチポチポチポチポチポチポチポチポチ…
ポチポチポチポチポチポチポチ…

何しに来たんだ、と言う間もなく彼女の第一声が来た。
「ここ1週間丸々来ていないと言うことを阿久君から聞いてな、その…迷惑と
は思うんだが見舞いがてら来てみた。風邪をこじらしているのか?」
「な、何しに来たんだよ…」
「だから見舞いがてらだ。顔色が悪いぞ。寝ていたのか?薬は飲んだのか?」
「いや…」
二人の間に沈黙が流れる。非常に気まずく、まるで俺を刺す様な空気が流れる。
どれくらい時間がたったのだろうか。それほど時間がたっていない気もするし、
1時間も2時間もたった気がする。彼女は何かを思いついた様に口を開いた。
「あ、そうだ。見舞いの品を持ってきた。上がって良い…か?」
「あ、まぁ…」
彼女の手には大きな紙袋が二つ下がっている。お見舞いの品にしてはちょっと
大振りな荷物を気にしている俺を横目に、彼女は颯爽と俺の部屋の中に入って
いく。
「台所を借りるぞ。」
彼女は手慣れた様に紙袋から出した鍋と皿とタッパーに入った材料をてきぱき
と調理し始める。
「体の調子もあるだろうし、横になっていても良いぞ。出来たら呼ぶから。」

たまった洗い物と格闘しながら、てきぱきと彼女は料理をしている様だった。
俺は何をするわけでもなく、話しかけることも出来ず、ただ座りながら彼女の
後ろ姿を見ていた。
まじまじと見ることはなかったが、背は俺と比べてもずいぶん低い様だ。16
8cmの俺と比べて顔一つ分くらい小さい。そして何より華奢な体つきが眼にま
ぶしかった。
ゆったりとした白のブラウスは小さな彼女の肢体を包み、背中まである黒い髪
がそのブラウスにさわりさらさらと音を立てる。すらっと伸びた足を包むパン
ツは、足の細さを誇示する様だ。多分俺の腕の太さもないんじゃないか?と思
えるほど細い。何の料理をしているのかは分からないが、一挙一動に小さなお
尻が動く。
「出来たぞ」
素っ気なく言うと、汚いテーブルに色々な料理が並んだ。
鮭のムニエル、大和煮、ぶりの照り焼き、きんぴら、カボチャの煮付け。
しばらく物を食べていない俺は至極食をそそられた。
「さぁ、食べてくれ。何を作ったらいいのか分からなかったから私の好きな物
を作ってみた。」
返答に困っていると彼女はご飯を装った茶碗と箸を差し出す。
箸を付けてみると、普段俺が口にする物とは異なった、所謂家庭の味がした。

「食べながらでも良い、そのまま聞いて欲しい。」
箸を休め彼女に目を向けると、凄く緊張し、かしこまった感じの彼女がじっと
こちらを見ている。
「この前、私がここにお邪魔した時は本当に申し訳なかったと思っている。あ
れから暫く私は考えたのだが、その…やはり諦められない。実はこの前の飲み
会も私が阿久君に頼んで開いた物だったんだ。君との接点が欲しくてな。それ
で、みんなの協力もあり君と仲良く慣れたわけだが…その、君を不愉快にさせ
てしまったのがな…どうだろう、ひとつ水に流してこの前の夜からやり直して
くれないだろうか。」
真剣な彼女の瞳は、依然と変わりなく俺を混乱させる。
「あの、さぁ…勝呂さん、きれいなんだし、その、俺みたいなのを引っかけて
遊ぶより、その…やめた方が良いよ…」
「何を言っているのか分からない。それはつまり、私が嫌いと言うことなのか?」
「いや、そうじゃなくてさ…嘘くさいよ、この状況。俺ならこういう風に遊ば
れるのも慣れてるから良けど、他の人にはやったら良くないよ…」
「他の人にこんな事をするわけがないだろう。だって私は…」
その時、久方ぶりに食べた物が胃に優しくなかったのだろう。急にめまいと頭
痛がしてくる。まるで風呂にのぼせていきなり立ち上がったときの様に目の前
が白くなり、その場にうずくまる。薄れゆく意識の中で最後に聞いた言葉は「
惚れているんだからな」だった。頭まで白くなるようなめまいの中で、俺は嘘
くせーと
思い続けていた。

意識がぼんやりとする中、目を開けると彼女が心配そうにこちらを見ている。
いつの間にか頭の下には水枕
が置かれ、額には氷嚢が当たっている。
「ありがとう…色々してくれたみたいで…」
「気にしなくて良いけど、その、もう良いのか?痛い所とかはないか?吐き気
は?おなかは?それから…」
「大丈夫、久々に物食べてお腹がびっくりしただけだからさ。」
うめく様につぶやく様に喋る俺に対しても彼女は真摯に答える。
「ご飯を食べてなかったのか。どうしてまた、そんなことを…」

天井を見つめる。なんだか今まで色々と考えてきたことが馬鹿に思える。この
数日俺がやっていたこと、考
えたこと。その全てが徒労に終わった感じがするのはなぜだろう。彼女の言葉
がそうさせるのか、調子の悪
い体調の為せるものかは分からない。
「俺、高校までいじめられていたんだよ。」
彼女の言葉はない。自然にわき出てくる言葉を待つ様に、じっと彼女はきちっ
とした姿勢で正座をしてこちらを伺っている。
「何が原因って訳でもなく、なんとなくいじめられていた。殴られるわけでも、
金を取られる訳でもないん
だ。ただただ、シカトされる。そんな高校生活が2年半続いた。3年の中頃、そ
んな中でも俺に気を遣って
くれる女の子がいたんだ。とてもかわいい子だった。事あるごとに大丈夫?元気
出してね。応援してる。そんな言葉をかけてくれたんだ。俺は彼女がたまらなく
好きになって、ある日彼女に告白した。なけなしの勇気だった。でも振られた。」
彼女の俺を見る目は変わらない。いや、少し目が潤んでいるのだろうか。その大
きな瞳が濡れている様に見えた。
「それは構わないんだ。彼女はいつもクラスとか部活の中心にいて、かたや俺は
日陰にいる感じだし、それは別に納得できることだったんだ。俺はしょうがない
、と自分でも驚くほど割り切れてさ。次の日も学校に出て行った。そうしたらな
んか周りの雰囲気違うんだよ、朝から。みんなが俺を見てクスクス笑う感じ。な
んか嫌な感じが朝からあったんだけど、いつものことと思いこんで授業を受け続
けてた。その昼休み、食事時にさ。ほら、昼の放送ってあるじゃない。あの放送
でさ。俺の声で優しくしてくれた女の子に告白しているのが流れているんだよ。
不思議だろ?綺麗な音でさ…最初から録音を…俺、次の日から学校…行けなくて…
女性が、怖くて…」
思わず鼻声になる自分が情けなかった。
「単位は足りてたからさ、学校は行かなくても何とかなったんだ。郵便で教師と
受験票のやりとりとかして…すること無かったから勉強してさ…大学からは変わ
ろうと思ったんだ…けど…この前、勝呂さんと話てて…思い出して…」
いつの間にか嗚咽を漏らす俺を冷静に見ている俺がいる。もう何もしゃべれず、
語ることを語った感じがいっそう涙を流させた。

次の瞬間、俺の視界は暗くなり彼女の胸でいっぱいになった。
彼女は俺の頭を抱きかかえる様に、優しく、強く抱きしめその頭をなででいた。
「すま…なかった…ね…」
視線を彼女に向けると、彼女の眼からは俺の目から流れ出る涙と同じ位、いやそ
れ以上の涙が溢れ出ていた。
母に抱かれる子供の様に俺は彼女の胸で嗚咽を漏らす。
頭を抱く彼女は、何も言うこともなくただただ頭を撫でてくれている。かなりの
時間そうしていた様にも思え、また短い時間のようにも感じられた。静寂を打ち
破ったのは彼女の方からであった。
「よく分からない…でも、君の事がこれほど愛おしく感じられたのは私にとって
嬉しい誤算だ。私は汚い人間なんだ。自分のことをまず一番に考える。君の弱っ
ているところを見逃さず、むしろ弱っているところを愛おしくさえ思う様な人間
なんだ。軽蔑をされたくはない。けれど、これが本当の気持ちだ。この前伝えた
言葉は本当の私の気持ちだし、その気持ちに変わりはない。いや、むしろ強くな
っている。だから、すまなかった。」
なぜこんなタイミングでそんなことを言い出すのか、理解できなかった。勝呂さ
んは俺の一人語りに付き合ってくれているのだろうか。普段とはまた違った口調
で語った。
「本当は、もう一度お付き合いをお願いしようと思って今日は来たんだ。我なが
ら…なんというか浅ましいとすら思えるな。でも、今日君の言葉を聞いたら泥だ
らけで真綿に寝ころぶ自分の様を思い浮かべられた。私の好きな君を、私のエゴ
で汚しては、私が悔やんでも悔やみきれないよ。本当に本当に、本当に失礼した。」
平身低頭謝る彼女に何か言葉をかけなければ、と思う頭とは裏腹に玄関の扉は閉
まる。彼女の言葉は俺の頭の中でうわずり、言葉は意味を無くし、ただ綺麗な音
としてしか頭をよぎらなかった。体を離すと彼女は身支度を調え、玄関の扉を開
けた。
「これから、大学で会っても気にせず…いや、むしろ無視してくれて構わない。
私は君を傷つける様だ。邪魔をした。」
彼女は部屋を出て行った。残された俺は、今更ながら一人でこの部屋にいると
言うことを自覚しながら、まだ隊長の戻らない我が身を呪い、呟いた。
「この駄目人間…」



気分は晴れない物の、大学には行かなくてはいけないという義務感から大学に足
を向ける様になった。それは自分で稼いでいる金が学費に充てられていることに
起因するのか、それとも彼女に対する言いようのない気持ちが形を変えた物なの
かは分からなかった。
そういえば、次の講義彼女も確か受けていたんだっけ…
思い出すと鬱になる。彼女に関すること、自分のしたこと、全てが渦巻いて混乱
に俺を陥れる。無視するんだ。言い聞かせても釈然としない物が頭の中にある。
そんな気持ちを見透かしてか、その講義を受け持つ教授は講義中にさらなる波紋
を投げかけた。
「あ、名成君と勝呂さん先週こなかったでしょ。一ヶ月後の講義の時に研究発表
して貰うから。後で部屋にきてね。」
朗らかな、年相応に深みのある声が頭の中でこだまする。
それから耳にはいる言葉は頭を素通りし、意味のない音へと変わっていく。
教授の部屋でもそうだった。終始無言の俺とは対照的に彼女は明朗な声で教授と
やりとりする。まるで何もなかったかの様に。対して俺は適当に相づちを返すだ
け。我ながら情けないとは思うが、平静を装うだけで精一杯だった。
その後学食で調べることに関しての細かい打ち合わせ。彼女はあくまで事務的に
接してくる。
「で、私は天地初發の解釈から…」
「古事記と日本書紀の政治的背景が…」
彼女は本当に優等生だ。相方の俺が役に立たなくても一人でも立派な発表が出来
るだろう。
俺はただただ何の感傷も受けず、目の前の言葉に対し注意深く聞きながら的確、
かつ曖昧な返事を返す仕事に従事していた。しかし頭の心までは響かない様にす
るのは中々骨がいる作業だった。
だからだろうか、そんな彼女の言葉の音色が変わったのに敏感に俺の耳は反応した。
「本当にすまないと思ってる。ここでこうして卓を囲むと言うことも嬉しく思っ
ている。その…顔に出て…いた?それで気分を損ねたとしたら悪いと思って…」
「いや、気にしないで。あれは俺が悪かったよ。本当に。謝って済めば良いんだ
けど、そうも行かないしね…でもとりあえず謝っておく。ごめんなさい。」
よく覚えていないが、この時の俺は何も考えていなかったと思う。考えていたら
もう少し気の利いたことを言い、自分に対して安全な言葉しか言わなかったと思
う。彼女はその細い腕を組みながら続ける。
「あれは…その…酔いがそうさせたんだと思う。柄にもなく酒に酔っていたし、
お互い気にすることはない…と思う。どう?」
どう、と聞かれても困るのだが、とりあえずは頷いておく。
「うん、取り敢えずは発表に集中しよう。それでここの部分だが…」

不思議なことに、その時は冷静に彼女を見ることが出来た。それが先ほどの彼女
の言葉がきっかけなのか、そうでないのかは分からない。
ただ、冷静に彼女を見た時、整った横顔が悲しそうな雰囲気を醸しているのに俺
は何故か愛しさを感じた。

改めて彼女は優秀な学生だと思う。前からうすうすは感じていたが、一緒に調
べ物をするにつれ、より強い確証となっていく。
想像で物を言わない。知的欲求には素直に行動する。理論づけられてない意見
はあくまで参考としておく。
もちろんその知識量にも驚かされたが、知識だけではなく考え方に驚かされる。
これで同じ回生というのだから、自分がどれだけ幼いかがわかる。
驚いたのはそれだけではなかった。大学での彼女の印象は無口でひたすら勉強
に打ち込む姿が強かった。確かに勉強に対する姿勢はその通りであったが、彼
女は意外にも無口ではなく、意外に会話を求めてくる。
「その雑誌の発表はいつ頃になっている?」
「えと、昭和52年だな。」
「ではこちらの論文の方が3年新しいな。ということはその論文に対して反証
の材料があったのか。書かれている参考文献を取ってこよう。」
「貸し出し依頼の紙に移しておくよ。」
「ところで目玉焼きがなかなかうまく焼けないのだが、何故だろうな。」
「え?」
「ターンオーバーだ。ひっくり返して焼く手法で、映画で美味しそうに食べて
いるのを見てからという物何度となく試したのだけど、これがなかなか上手く
いかなくてな…」
という具合にふとしたときに日常の会話を混ぜてくるのでこちらとしても気が抜けない。
「それはフライパンの温度に尽きると思うよ。火は気持ち弱め、裏に返してか
らの方を長く焼く感じだといいと思う。」
知っている知識の中から絞り出した答えに彼女は満足したのか、彼女の細い目
は気持ち大きく見開かれながら、「ありがとう、今晩早速試してみる。」
最近気づいたことだが、この目を多少大きく開く動作はどうやら彼女が嬉しい
ときに出る仕草のようだ。その仕草を見る度になにか俺は嬉しくなっていく。

この短い間、俺は今までにない充足感に包まれていた。
それが珍しく勉強に打ち込んだ達成感からくる物ではないことはわかっている。
この充足感が今日で終わる。明日は発表の日。今日は学食で明日に備え打ち合
わせを行っている。
正直、自分がここまで他人に関われるとは思ってもいなかった。つかず離れず、
相手との距離を一定に保つしか人と付き合う術を持たない俺は、こんな社交
性があったのかと驚くほどだ。
「で、明日の発表なのだが君に発表を頼みたい。その…私は人前に出るとあが
ってしまうから…」
腕を組みながら彼女は目を伏せがちにつぶやく。
「別にいいけど…でも、今回の資料だってほとんど勝呂さんが調べたし、なんか気が引けるな。」
「気にしないでもいい、私は調べる作業自体が楽しかったし、その…本当に楽しかったんだ。」
組んだ腕を解きながら彼女はじっとこちらに目を合わせ言い放つ。
「そうなんだ。勝呂さん日本神話が好きなんだね。」
心底感心した俺は、彼女の崇高さに敬意を表したつもりだった。だが、彼女の
表情はこちらの気持ちとは裏腹に曇る。
気まずい雰囲気が流れる。昔からこの雰囲気は嫌いだ。俺が何かを喋る。そして時に起こるこの雰囲気。
自分が相手を傷つけたのか、嫌な思いをさせたのか。嫌われたのか、怒ってい
るのか。全てがこの雰囲気に混じり込んでいるとも思え、何もないように思えるこの雰囲気が嫌いだ。
慌てて、俺は彼女に対して口走る。雰囲気に背中を押されなければ、普段の俺ならば絶対言えないであろう。
「発表が終わったら、なんかメシ奢るよ。ほら、調べ物もほとんどやって貰ったし。お礼と思ってさ。」
「そんな、悪い。私は何も辛いことなんて思ってもいない。むしろ、こちらが奢りたいぐらいだ。」
「んー。じゃ、割り勘にしようか。それなら気にしないでしょ?」
気の利いたやつはこういう時になんて言うのだろう。俺にはこれしか頭に浮かばなかった。
「わかった。楽しみだな。」
彼女の細い目は薄紅がかった頬の上で気持ち大きく開かれた。