Twitterでつぶやいています(ブログ終了)
Twitter(ツイッター)でたまにつぶやいています(ブログ形式)
突然ですが、ブログを終了させていただきます。
2年近くという長い間ありがとうございました
ブログはとりあえずはこのまま消さずに残しておきます。
また機会があれば再開するかもしれません。
ただ、2年近く世間のありきたりの話題に自分の考えなどを付け加えてきた感じがあるので、
次回ブログをやるとしたら今までとはちがった舞台で表現していくかもしれません。
今までありがとうございました感謝しています
Twitter(ツイッター)でたまにつぶやいています(ブログ形式)
突然ですが、ブログを終了させていただきます。
2年近くという長い間ありがとうございました
ブログはとりあえずはこのまま消さずに残しておきます。
また機会があれば再開するかもしれません。
ただ、2年近く世間のありきたりの話題に自分の考えなどを付け加えてきた感じがあるので、
次回ブログをやるとしたら今までとはちがった舞台で表現していくかもしれません。
今までありがとうございました感謝しています
Twitter(ツイッター)でたまにつぶやいています(ブログ形式)
【学習】記憶の仕方
私の勉強の仕方は徐々に進化をとげています?(笑)
やはり働きながら勉強するということは、学生のころと違って工夫をしなければならないと思います。
ただ、工夫といっても学生のときよりシンプルな勉強法に行きつくということです。究極の目標は
覚えないで成果を出す
こと。今回の会計士試験の知識系科目は半年間あまり勉強しなくても実力はほとんど落ちていませんでした。ですので、ある程度使える方法かなと思っていますので、簡単にメモっておきます。
※話が長くなってしまいましたので一応流れを示しておきます。
以前の記事で島田伸介氏の言葉を借りて、
「心」で記憶するタイプか「頭」で記憶するタイプか
というお話をしました。まず、この2つを理解して使い分けるということが大切です。どんな資格試験でも同じですが、基本的に学問というのは一本の筋の上に一貫した内容で出来上がっています。これが「原則」部分です。ただ、その中に「例外」があるわけです。
結論から書くと、
・一貫した論理構成部分(原則)は「心」で覚える
・例外部分は「頭」で覚える
のが一番効率的です。
ただ、「心」で覚えるということを、もっと深く考えないといけません。例えば、
「ディズニーランドに行ってすばらしくキレイなパレードを観て感動して、そのことがずっと心に残っている」
これこそが心の記憶です。
ただ、勉強を継続していく上でしょっちゅう心に記憶することができるでしょうか?できませんよね。むしろ心の記憶というのは気分の高揚によって、ある階層の意識層に記憶が蓄積されることをいいます。精神が不動ではない状態といってもいいかもしれません。
もし、勉強においてそんな状況が続くのなら、ある意味疲弊してしまうと思います。よって、「心」の記憶法というのをちょっと工夫しないといけません。
どうやって工夫するのかというと、
「心」の記憶風にアレンジする
ということです。ほとんどの人は与えられた教材をそのまま「文字」として読みます。ここが大切なのですが、文字というものが使われた時点で、意味が失われるということを覚えておくといいと思います。
つまり、文字というのは本来、連続的な事象を断片的に表現してしまうツールだからです。その切断されてしまった部分は表にあらわれてこないというわけです。
やるべきことは「心」の記憶風、見えない部分を記憶するということ。つまり、心の記憶はある「概念」のような記憶です。イメージといってもいいかもしれません。
つまり、連続した事象をイメージ化したもの。心は文字情報としては覚えてくれません。概念とかイメージの見えない情報を記憶してくれるだけです。ですので、与えられた文字情報のつまった教材を
概念化して心が覚えてくれるようにする作業
が必要なのです。
ちょっと難しいかもしれませんが、教材を渡されたときに
教材は2冊渡されたとイメージ
してください。一つは文字情報のつまった教材。もうひとつは何らかの概念がつまった教材。そして、この2冊の厚さは、前者が500ページなのに対して、後者は50ページ。原則部分を覚えるのは後者の教材だなと意識してください。この教材の、
流れる一本のライン=原則
をつかむために500ページの教科書を読みます。決して、覚えるために文字情報を読まないことです。最終的な目的は見えない概念をつかむことです。これを言葉で説明するのはものすごく時間がかかるので、実際にそのようなスタンスで勉強するのがいいのですが、まずはよく使われますが、
趣旨
をつかむことからはじめるといいと思います。どうしてそうなったのか?その背景にある意味は何か?と考えていきます。そして最終的には見えない教材の概念をつかむのです。趣旨とか書くと、なかなかブレークスルーできなくなってしまうのであまり好きではありませんが、今までの勉強法という流れからちょっとはずれてください。覚えるために勉強するというスタンスをまずはやめてみることです。
ながながと話してきましたが、今度は例外部分。例外部分は基本的には学校で教わった一般的な勉強法で十分です。ただ、以前のブログで書いたように「いかに覚える部分を少なくするか」という工夫をしていきます。引用すると、
①理解しようとする
②趣旨・背景・目的を意識する
→見えない教材に落とし込めないか検討するということ
③上下関係・対立・比較を意識する
④単純化・具体化する
⑤残りは覚える
つまり、②の時点で見えない教材に落とし込めないものは③~⑤において覚えていくというスタンスです。
後半は書くのに疲れてはしょってしまいましてすみませんが、みなさんもぜひ、チャレンジしてみてください
27歳//
やはり働きながら勉強するということは、学生のころと違って工夫をしなければならないと思います。
ただ、工夫といっても学生のときよりシンプルな勉強法に行きつくということです。究極の目標は
覚えないで成果を出す
こと。今回の会計士試験の知識系科目は半年間あまり勉強しなくても実力はほとんど落ちていませんでした。ですので、ある程度使える方法かなと思っていますので、簡単にメモっておきます。
※話が長くなってしまいましたので一応流れを示しておきます。
・心の記憶→原則部分に使う→連続した概念として記憶
・頭の記憶→例外部分に使う→知識として記憶→覚える部分を少なくする
以前の記事で島田伸介氏の言葉を借りて、
「心」で記憶するタイプか「頭」で記憶するタイプか
というお話をしました。まず、この2つを理解して使い分けるということが大切です。どんな資格試験でも同じですが、基本的に学問というのは一本の筋の上に一貫した内容で出来上がっています。これが「原則」部分です。ただ、その中に「例外」があるわけです。
結論から書くと、
・一貫した論理構成部分(原則)は「心」で覚える
・例外部分は「頭」で覚える
のが一番効率的です。
ただ、「心」で覚えるということを、もっと深く考えないといけません。例えば、
「ディズニーランドに行ってすばらしくキレイなパレードを観て感動して、そのことがずっと心に残っている」
これこそが心の記憶です。
ただ、勉強を継続していく上でしょっちゅう心に記憶することができるでしょうか?できませんよね。むしろ心の記憶というのは気分の高揚によって、ある階層の意識層に記憶が蓄積されることをいいます。精神が不動ではない状態といってもいいかもしれません。
もし、勉強においてそんな状況が続くのなら、ある意味疲弊してしまうと思います。よって、「心」の記憶法というのをちょっと工夫しないといけません。
どうやって工夫するのかというと、
「心」の記憶風にアレンジする
ということです。ほとんどの人は与えられた教材をそのまま「文字」として読みます。ここが大切なのですが、文字というものが使われた時点で、意味が失われるということを覚えておくといいと思います。
つまり、文字というのは本来、連続的な事象を断片的に表現してしまうツールだからです。その切断されてしまった部分は表にあらわれてこないというわけです。
やるべきことは「心」の記憶風、見えない部分を記憶するということ。つまり、心の記憶はある「概念」のような記憶です。イメージといってもいいかもしれません。
つまり、連続した事象をイメージ化したもの。心は文字情報としては覚えてくれません。概念とかイメージの見えない情報を記憶してくれるだけです。ですので、与えられた文字情報のつまった教材を
概念化して心が覚えてくれるようにする作業
が必要なのです。
ちょっと難しいかもしれませんが、教材を渡されたときに
教材は2冊渡されたとイメージ
してください。一つは文字情報のつまった教材。もうひとつは何らかの概念がつまった教材。そして、この2冊の厚さは、前者が500ページなのに対して、後者は50ページ。原則部分を覚えるのは後者の教材だなと意識してください。この教材の、
流れる一本のライン=原則
をつかむために500ページの教科書を読みます。決して、覚えるために文字情報を読まないことです。最終的な目的は見えない概念をつかむことです。これを言葉で説明するのはものすごく時間がかかるので、実際にそのようなスタンスで勉強するのがいいのですが、まずはよく使われますが、
趣旨
をつかむことからはじめるといいと思います。どうしてそうなったのか?その背景にある意味は何か?と考えていきます。そして最終的には見えない教材の概念をつかむのです。趣旨とか書くと、なかなかブレークスルーできなくなってしまうのであまり好きではありませんが、今までの勉強法という流れからちょっとはずれてください。覚えるために勉強するというスタンスをまずはやめてみることです。
ながながと話してきましたが、今度は例外部分。例外部分は基本的には学校で教わった一般的な勉強法で十分です。ただ、以前のブログで書いたように「いかに覚える部分を少なくするか」という工夫をしていきます。引用すると、
①理解しようとする
②趣旨・背景・目的を意識する
→見えない教材に落とし込めないか検討するということ
③上下関係・対立・比較を意識する
④単純化・具体化する
⑤残りは覚える
つまり、②の時点で見えない教材に落とし込めないものは③~⑤において覚えていくというスタンスです。
後半は書くのに疲れてはしょってしまいましてすみませんが、みなさんもぜひ、チャレンジしてみてください
27歳//
【人生デザイン】「死」を意識して生きるとは?
他の方のブログで「死」について書かれていたのでちょっと便乗します。この話題を短く語るのは自分的には苦手ですが、内容を感じてくれればうれしいです。
過去にも「死」についての記事をいくつか書きました↓
■「死」は自分を殺したということ
■「楽」と「苦」…それが人生
ちょっと話それますが、みなさんはブログってどのように書くのでしょう?
私がブログを書くときは「一貫したライン」のようなものが頭の中で思いつくときです。
趣味のような内容の記事以外は、その一貫したラインを感じたときに書くので毎日更新するスタンスをとっていません。
そして、書き始めた時点でどんな内容になるのか自分でもわかっていないことが多いです。一貫したラインは意味というよりも感覚だからです。
だからと言っていい加減に書いているのではなく、その一貫したラインから自分の持っている知識や経験などでもっとも近い表現を抽出して書いています。
ただ、噛み砕くときに本などのインプットなどが足りないと表現不足、知識不足のようなものになってしまうな~と感じることがあります
以前の「死」についての記事も読んでみると、まだまだ知識不足、経験不足、表現不足だなあと感じます。
さて、「死」を意識して生きることについて書きます。
よく自己啓発書などで
「死」を意識すると人生充実する
みたいなことが書かれていますが、それは確かにそうだと思います。時間を区切ると仕事に集中できるようなものです。そこには
「今」に「集中」するということが最も大切
だという教えが含まれていると感じます。仏教などで言われていることですが、
「過去」「未来」は自分の中の想像に過ぎません
現実に存在するのは「今」だけです。時間を区切る(=死を意識する)ことは「今」に集中させる一つの手法と考えてもよいのではないでしょうか。ですので、「今」というこの瞬間に集中できれば「死」なんて意識しなくてもいいのかもしれませんが、自分を含めて、
99パーセントの人は「今」に集中できず、過去・未来に思いを馳せている
わけです。
そして、「死」を意識するという意味にはもっと深いものが眠っています。誰かが
「誰でも必ず死ぬという(生きる)病におかされているのに、目の前の病気にばかり気をとられている」
と言っていました。確かにそうだよな、って思うのですが、この言葉の意味を汲みとると
生きるという病が異常であって、死という状態が自然
だとも解釈することができます。ものすごく省略しましたが、つまり、
死という枠の中に生があるのであって、自然な状態が「死」
であるというもの。変な世界観ですよね?ただ、これこそが
死を意識すること
なのです。水を例に取ってみるとわかりますが、気体、液体、固体…すべて同じものです。性質が違うだけ。人間も同様です。生も死も性質が違うだけであって、本当は同じものだと思います。そこにあるのはどちらが自然な状態か?ということ。
どちらが正しいかは置いといても、仮に教育などで「生」という状態が自然だと教えられていたら、私たちは「死」というものを不自然ととらえることでしょう。先入観にとらわれず広い視野で物事を考えると人生もっと楽しくなると思います
27歳//
過去にも「死」についての記事をいくつか書きました↓
■「死」は自分を殺したということ
■「楽」と「苦」…それが人生
ちょっと話それますが、みなさんはブログってどのように書くのでしょう?
私がブログを書くときは「一貫したライン」のようなものが頭の中で思いつくときです。
趣味のような内容の記事以外は、その一貫したラインを感じたときに書くので毎日更新するスタンスをとっていません。
そして、書き始めた時点でどんな内容になるのか自分でもわかっていないことが多いです。一貫したラインは意味というよりも感覚だからです。
だからと言っていい加減に書いているのではなく、その一貫したラインから自分の持っている知識や経験などでもっとも近い表現を抽出して書いています。
ただ、噛み砕くときに本などのインプットなどが足りないと表現不足、知識不足のようなものになってしまうな~と感じることがあります
以前の「死」についての記事も読んでみると、まだまだ知識不足、経験不足、表現不足だなあと感じます。
さて、「死」を意識して生きることについて書きます。
よく自己啓発書などで
「死」を意識すると人生充実する
みたいなことが書かれていますが、それは確かにそうだと思います。時間を区切ると仕事に集中できるようなものです。そこには
「今」に「集中」するということが最も大切
だという教えが含まれていると感じます。仏教などで言われていることですが、
「過去」「未来」は自分の中の想像に過ぎません
現実に存在するのは「今」だけです。時間を区切る(=死を意識する)ことは「今」に集中させる一つの手法と考えてもよいのではないでしょうか。ですので、「今」というこの瞬間に集中できれば「死」なんて意識しなくてもいいのかもしれませんが、自分を含めて、
99パーセントの人は「今」に集中できず、過去・未来に思いを馳せている
わけです。
そして、「死」を意識するという意味にはもっと深いものが眠っています。誰かが
「誰でも必ず死ぬという(生きる)病におかされているのに、目の前の病気にばかり気をとられている」
と言っていました。確かにそうだよな、って思うのですが、この言葉の意味を汲みとると
生きるという病が異常であって、死という状態が自然
だとも解釈することができます。ものすごく省略しましたが、つまり、
死という枠の中に生があるのであって、自然な状態が「死」
であるというもの。変な世界観ですよね?ただ、これこそが
死を意識すること
なのです。水を例に取ってみるとわかりますが、気体、液体、固体…すべて同じものです。性質が違うだけ。人間も同様です。生も死も性質が違うだけであって、本当は同じものだと思います。そこにあるのはどちらが自然な状態か?ということ。
どちらが正しいかは置いといても、仮に教育などで「生」という状態が自然だと教えられていたら、私たちは「死」というものを不自然ととらえることでしょう。先入観にとらわれず広い視野で物事を考えると人生もっと楽しくなると思います
27歳//