”アイデアマン”の呼び方をそろそろ変えたいのだが、いいアイデアはないか?

 

はろー!

 

たまに飲みに行かせてもらう知り合いとゴハンを食べていたところ、知り合って7~8年は経ってると思うのですが判明したことがありまして。

 

10年以上前に遊びに行ったフェスで、タイムテーブルをガン無視して演奏を続けたミイラズが共演者にぶん殴られるという事件?があって、「それからミイラズ好きなんですよ」という話をしたら、その頃のスタッフだったんですって、ミイラズの。

 

ボーカル畠山さんの話を聞けたりして楽しかったのですが、人と人は初めましての前に会ったりしてるのかもしれませんね。

 

御徒町でひとりで立ち飲み屋に寄って、隣で飲んでたおねーさんと仲良くなったら遠い親戚だった、ということもあります。(的屋一家だったから、ぼくも誘われて職業が的屋になった時期がある)

 

偶然といった事象は”約束”よりも楽しさが上がるスパイスとなる。その偶然を引き寄せるのは果たして手数か否か。

 

1枚だけ買った宝くじが当たるみたいな人もいる中、なにも引き当てない人もいる。ぼくから言わせてもらえば大吉も凶も同じこと。

 

”たまたま話した人が親戚だった”というのは確率で言えばたしかに低いけど、”まったくの他人と仲良くなる”方が奇跡に近いと思う。

 

当たらない宝くじを買い続けて「こんなにも当たらないおれ」をネタに場を盛り上げてれば人は寄ってくる。

 

ビュッフェ帰りの人たちにおにぎりは売れない。もっと美味しくする努力や値下げの努力なんかしてないで腹ペコの人がいる場所に行った方がいい。

 

「努力は裏切らない」のではなく「方向性のあった努力は実らざるを得ない」が正しいんだと思う。

 

ぼくは言霊をわりかしある方だと思っていて、声に出しちゃうって大事だよね派です。だってさ、言語のない動物だって声出すじゃん。ワン!とかニャーとかパオーン!とかピピピッだよ?

 

ということは声って母音と子音を組み合わせて意味を持たせたツール、の前に”音”であり、すなわち振動ということで。

 

振動は目には捉えれない中で伝わっていくのでしょう。

 

「プロレス観たい」がどう伝わったのかわかりませんが招待を受け、行かせてもらいました。女子プロでしたけど。

 

「わータイムリ~」などと浮足立って東京ドームシティへ。(実は初めて行った)

 

会場へ入ると派手なコスチュームに身を包んだ選手が客席を煽っています。ぼくはビアを片手に早くも興奮してしまい、初めて観戦するプロレスを謳歌。

 

アジャコングさんやダンプ松本さん、神取忍さんと言った女子プロ界を支えてきたレジェンドがエンターテイメントを提供するその雰囲気に身をゆだね、まだ若手らしい桃野美桜さんのファンになりました。

 

1試合目に「茶番だな」と漏らしたぼくは「それ禁句」と怒られました。しかしイベントが進むにつれて、まだ経験の浅いこれからの選手だったから、ということが分かり”茶番”ではなく”ショーとして未熟だっただけ”となんとなく掴めてきました。

 

終わってみればプロレスをもっと観たい!知りたい!とプロレスファンとしての1日目を歩き始めました。

 

同行させてもらったメンバーで夜ご飯もご一緒させてもらったのですが、その中にプロレスファン歴30年以上のガチ勢もいて「女子プロ応援していきます!」と騒いだのを喜んでくれたのか、次は後楽園に行こうと誘ってくれました。

 

さらにBOOWYの大ファンでもあるらしく、「こないだ布袋さんが隣で飲んでましたよ」と話すと「呼べよ!」と悔しそうにしてたので「ぼくと会うの遅かったですね」と態度を急変、クルマで家まで送らせました。(ほんとすいません)

 

そして嬉しかったのが松本伊代さんのサプライズ演出。まさかナマ伊代ちゃんのナマ”センチメンタルジャーニー”を生きてるうちに聴けるだなんて!と大興奮。伊代はまだ♪16だからー♪

 

「恥ずかしがらないで振り付け一緒にやってねー、いちばん恥ずかしいのは私ですよー」とMCもさすがに上手だなぁと勉強になりました。

 

未来に思い出となる何かを今、獲りにいくところ。

 

12月が落っこちてきそうな空を悩みがありそうな顔をして眺めてみる。その度に手軽な絶望など無いのだな、と希望があることに落胆する。

 

洗濯ものがクルクル回るのをやめ、ピーピー「ここから出せー!」と騒ぐからぼくはまた生活に貼りつけられる。

 

フォロワーが0でも1万でも不特定多数に聞こえてしまう可能性がある媒体、そんなつぶやきがあってたまるか。

 

そんな場所で本当のことを話す人がどれほど居るだろう?そんなことは解ってるはずなのに、わざわざ一喜一憂しながら一体何処へ向かうのか。

 

夢の腐臭がする。

 

子どもの頃に書かされた”しょうらいのゆめ”にぼくは何を書いたっけ?たしかパン屋さんとかそんなんだった。

 

そのあまりに無防備な人生設計図は当然、堂々と別人格をなぞって蒸発していった。大人が喜びそうな言葉を選んでるだけの幼少期を過ごしておきながら、「子どもは無邪気ねえ」と脚本通りに微笑むばかり。

 

気温が下がる季節に中があったかいもんで、飲食店にはネズミが深夜に徘徊しているようだ。べたべたとした罠を仕掛ければ、うかつな子ネズミが動けなくなっている。

 

殺してやれたらいいけど「そこまでしてやる必要なし」の罠は、生きたままのネズミごとゴミとして捨てられ、収集車を待つ。

 

ちゅーちゅーと鳴くのは泣いてるのか怒ってるのかわからない。ぼくらの関心は「親がまだ捕まっていない」ということだけだ。

 

そんな温度のない生き物と生き物の攻防が続き、ある日とうとう親が罠にかかった。1回りも2回りもでかい。

 

ただもうひとつ、決定的に違うのは「鳴かない」ことだった。自分がもう助からないことを知っているんだろう。そんな目をしてた。

 

ぼくはこれで子が泣いていたわけでも怒っていたわけでもないことに気づいた。親に助けてと叫んでいたのだ。

 

ぼくは人間、お前らの天敵だ。

 

こちらの縄張りに入り込んだのなら始末しなければならん。同情はしない、子と同じ道を辿らせる。

 

でも心の中では話しかけた。子をたくさん産んで生物としての役目、親としての責任は果たした。だから次はお前も人間になるかも知れない、その時は酒飲んで好きな音楽の話でもしようや。とゴミ袋に突っ込んだ。

 

絵本や紙芝居、マンガやアニメで動物たちが人のように存在する世界はそんな想いから生まれたのか?優しさと無情が平面の上に明快な形で矛盾し、可視化させ、かかったストレスを露呈すると同時に納得させた。

 

ネズミはネズミ、大昔から駆除の対象だ。そいつに一役買ってくれるネコを撫で、ネコは人が建てる蔵に居れば食べ物に困らない。

 

犬は狩猟の仲間として人と寄り添い、鶏はタマゴを産み続けた。

 

言語でも愛でもなく、あるのは利害の一致だけなんて結論はどっかの学者が出せばいい。ぼくらロマンチストは歌ったり恋をしたり間違いだらけの大傑作を紡ぎ出していくべきだ。

 

いつか、いつかで死ねばいい。

 

画家になろうと決めたなら、とりあえずベレー帽を選んでるような私だ。夢追い人よ、早くおいらを袋叩きにしておくれ。

 

ではまた!

 

本日のジョギングBGM

「虎/ハンバートハンバート」(20分くらいあってもいい気がする)