人は、何の途上にいるのか
――「世界の果て」から宇宙へ、そして人生へ
「ヨーロッパ」とはいったい何なのだろう。
私たちはヨーロッパを一つの大きな世界として捉えがちだが、地理的に見れば、ユーラシア大陸の西端に突き出した一つの半島でもある。
東にはアジア、西には大西洋。
そしてかつて、その西の果てには「世界の終わり」があった。
古代の人々にとって、ジブラルタルの彼方に広がる大西洋は未知の世界だった。ところが大航海時代、ポルトガルやスペインの船乗りたちは、その水平線の向こうへ漕ぎ出していった。
「世界の果て」だった場所は、やがて「新しい世界への入口」になった。
人間はさらに進み、地球そのものを一つの世界として捉えるようになる。
そして、地球が「世界」として見えてくると、人間の視線はさらにその外側へ向かった。
海の彼方から、宇宙の彼方へ。
月へ行き、惑星を探査し、遥かな銀河を観測する。
考えてみれば、人間の知的好奇心は、ずっと同じことを繰り返しているのかもしれない。
「あの先には、何があるのか?」
これは知識についても同じである。
一つの知識を求めて「知識の山」を登る。
ようやく頂上にたどり着いたと思ったら、そこには広大な平野が広がっている。そして遠くには、また別の山がそびえている。
山を越えれば、また山。
世界の果てを越えれば、また世界。
宇宙を見上げれば、また宇宙。
人間は、知れば知るほど「まだ知らないもの」の大きさを知る。
そして、ここにエベレストが重なってくる。
1924年、ジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンは、世界最高峰エベレストの頂上を目指して登り、消息を絶った。
二人が本当に頂上に到達したのか、今なお確定していない。
しかし、登頂できたかどうかとは別に、私たちの心に残る問いがある。
人は、何の途上で死ぬのか。
人間は、人生を完成させてから死ぬわけではない。
もっと知りたかったこと。
もっと行きたかった場所。
もっとやりたかったこと。
ほとんどすべての人間が、何かを残したまま、この世を去っていく。
それを私たちは「志半ば」と呼ぶ。
しかし、本当にそれは「未完成」なのだろうか。
世界の果てが次の世界への入口だったように、知識の頂上が次の山への入口だったように、人生もまた、完成することを前提としていないのではないか。
もし、この世界に「真理」が存在するとしても、私たちはそこへ到達できないかもしれない。
それでも、知りたいと思う。
一つ分かれば、また一つ分からないことが見えてくる。
それでも、次の山へ向かう。
だから人生を、「どこまで到達したか」だけで測る必要はないのかもしれない。
問うべきなのは、
「その人は、何の途上にいたのか」
ではないだろうか。
山頂に立てなくてもいい。
世界の果てにたどり着けなくてもいい。
真理に到達できなくてもいい。
人間は、死ぬまで何かの途上にいる。
そして死は、いつもその途中で訪れる。
「世界の果て」が、次の世界の始まりだったように。
「知識の頂上」が、次の山への入口だったように。
人生の「途中」もまた、失敗ではない。
それは、その人が確かに歩いていた場所なのだ。
海の向こうへ進んだ人々も、宇宙を目指す人々も、知識を求める人々も、そして私たち自身も――。
結局のところ、人間はずっと、
「その先に何があるのか」
を問いながら歩いている。
さて、私は今、何の途上にいるのだろう。
そしてあなたは――
いま、何の途上にいますか。
※本文はAIの協力によるもので、ある程度の裏とりはしてますが、内容に間違いが含まれている場合がありますのでご了承ください。