「ノソートロス」という言葉

――「私たち」は、どこまでを「私たち」と呼ぶのか

スペイン語で「私たち」を意味する nosotros(ノソートロス)

語源をたどると、nos(私たち)+otros(他の者たち)
そこには、「私たち+他の者たち」と「それ以外」という不思議な境界がある。

 

一方、古代ギリシャ語の nostos は「帰郷・帰還」を意味する。英語の nostalgia は、そこに「痛み」を意味する algos が加わった言葉で、もともとは「故郷へ帰れない苦しみ」を表していた。

 

語源的には、nostos と nosotros に直接の関係はない。

 

それでも、この二つの言葉を並べてみると、不思議なことを考えさせられる。

私たちは、どこから「私たち」になるのだろう。

同じ土地に生まれたからだろうか。
同じ言葉を話すからだろうか。
同じ文化を共有しているからだろうか。

あるいは、その土地で暮らし、その場所を大切にしようとするからだろうか。

 

「生まれ故郷への思い」と「郷土愛」は、似ているようで少し違う。

故郷を懐かしむことは、自分の過去を懐かしむことでもある。
しかし郷土を愛することには、そこに暮らす人々や、その土地の未来を思う気持ちも含まれるのではないか。

 

そして、英語の culture の語源は、ラテン語の colere、「耕す」にまで遡る。

 

文化とは、最初から完成した形で存在するものではない。

人が土地を耕し、暮らし、外から何かを取り入れ、ときには形を変えながら、次の世代へ渡していく。その積み重ねが文化になっていく。

 

だから文化は、決して「純粋なもの」ではない。

 

日本の文化だって、漢字、仏教、茶、食文化、さまざまな技術や思想を外から取り入れ、それを日本の土地で育ててきた。

そう考えると、「私たち」の境界も、固定されたものではないのかもしれない。

 

ここで、現代の移民問題にも一つの視点を与えられる気がする。

 

私は、無秩序な移民の拡大には反対だ。

人が増えれば、住宅、教育、医療、治安、雇用など、地域社会が引き受ける負担も増える。だからこそ、受け入れる人数は感情や理想論だけではなく、社会や地域が実際に受け入れられる規模を、データと現実に基づいて判断する必要がある。

 

しかし同時に、「外国から来た」というだけで、その人を永遠に「よそ者」とすることにも違和感がある。

 

その土地の言葉を学び、地域のルールを守り、働き、地域の人々と関わり、祭りや文化を知り、そして自分もその土地の未来に何かを残そうとする。

そんな人まで「私たち」にはなれないのだろうか。

 

もちろん、生まれ育った人にしか分からない記憶がある。
それは尊重されるべきだ。

けれど、郷土愛とは「誰が最初からここにいたか」を競うことではなく、誰がこの土地を大切にし、次の世代へ渡そうとしているかという問題でもあるはずだ。

 

土地は、所有するだけのものではない。

耕すものでもある。

 

そして文化とは、その土地を何世代にもわたって耕してきた人間の営みの記憶なのだと思う。

だから私は、「国境をなくせ」とも、「よそ者を入れるな」とも思わない。

 

国には国境が必要だ。
社会には受け入れられる規模というものがある。

 

しかし、その国境を越えて正式にこの土地に暮らすことになった人まで、いつまでも「他者」として扱う必要があるのだろうか。

「私たち」と「他者」の境界は必要だ。

 

だが、その境界は、永遠に閉じられた壁である必要はない。

 

Nostos――帰る場所。

Topophilia――場所への愛。

Culture――土地を耕し、育てること。

 

そして、

Nosotros――私たち。

 

「私たち」とは、同じ土地に生まれた人々だけを指す言葉なのか。

それとも、同じ土地の未来を一緒に耕そうとする人々まで含む言葉なのか。

 

移民問題を考えるとき、私はこの二つを分けて考えたい。

 

入口は管理する。
しかし、入ってきた人間を「よそ者」のまま固定しない。

 

その土地を愛し、文化を尊重し、地域の未来をともに耕す人間には、いつか「私たち」と呼べる場所があってもいい。

「ノソートロス」という言葉から、そんなことを考えた。

 

※本文はAIの協力によるもので、ある程度の裏とりはしてますが、内容に間違いが含まれている場合がありますのでご了承ください。