■たまには、田原も面白い
電波芸者の田原がやっている番組を、実に久しぶりに見た。政治など扱うとくだらないショーに終わっていたので見るのをやめたのだが、今日は、「代理出産」の是非を論じる企画があった。そして、これはなかなか見ごたえがあった。
日産婦倫理委員長の吉村泰典氏(慶大教授)と代理出産を手がけた根津八紘医師が、それぞれ懐疑、肯定の立場から討論していた。そして、枝野幸男、蓮舫の両国会議員が加わった。
2名の国会議員は直ちにどちらに軍配を上げるというのではなく、これを大難問と率直に認め、短兵急な結論を避けたうえで、さまざまな政治的、社会的問題点を指摘していた。実に順当な意見である。特に、枝野議員の「こうした重大な生命倫理に関わる問題は“国会議員ごとき”が簡単に結論づけられるものではない」との発言、大いに好もしい。
何とかいう芸能人が代理出産したとかでテレビで好奇心を煽る番組が一時期組まれ騒がれた。そんなことがきっかけでブームに火でもついたら、ただでさえ薄気味の悪い世の中がますます薄気味悪くなるだろうと案じていた矢先、興味深く聞かせてもらった。
■進歩なき人間の進歩
ところで、こういう議論を聞いていると、さまざまな思念がめぐってくるものである。
第一に、「倫理」などを考える人間の思考力や精神など、デカルト、カントといわず、ソクラテスの大昔から全く進歩していない。にもかかわらず、「技術」といった手先のことは日進月歩で長足の進歩である。その証拠に、大昔に書かれた哲学や文学の古典はいまだに読む価値がある。技術の本など、5年もたてば、あるいは、分野によっては半年前に書かれたものでもたちまち価値がなくなるであろう。
そんな人間のちぐはぐが、いよいよ難しく、深刻な問題を次々と生み出すものだろう。生殖や生命発生に関することなど、本来、人間がハンドルできることではなかったのではないのか。
■動物と文明の相克
自分自身は、子どもを欲しない女性を大肯定である。しかし、子どもを是が非でも欲する女性、夫婦もいておかしくないことも十分理解している。ただ、それが自然の摂理に任せておけば無理であったケースにおいてもなお強行するとなれば、新たに複雑な問題を生む。
つまり、第三者(代理で出産する人物)を介在させ、医療技術(あるいは医療技術者)を煩わせることになるからだ。そして、その所為と後の子どもの処遇までも含めて法制化を求めたり、社会的合意を欲するならば、本来、すぐれて自然的、生物的次元の営為であった生殖が極度に社会問題化することになる。
少し昔なら、自然の壁を前にあきらめ、受け入れざるを得なかった現実を、あきらめきれずに捻じ曲げて欲望を通したいとする人間なる生物、思考する生物の業が生み出す錯綜と言える。
■遺伝子のエゴが社会に求めるもの
生体的に出産できない女性がいる。しかし、(その本人、あるいは夫婦の意思では)子どもがぜひ欲しい。その場合、単に愛情(日本語だか訳語だかよくわからないこんな言葉も安直には信じられないのだが、それはともかく)を注ぐ対象としての子ども、自分の人生をかけて育みたい生命としての子ども、これが欲しいという欲求であるならば、他人が産んだ子どもでもよいはずだという理屈になる。現に、育て手がいなくて困っている子どもは世にたくさんいる。それを養子として迎え育てることも、社会的動物としての人間ならではのことで、それはそれで偉大な一つの営為だろう。
ところが、それでは気がすまない。あくまで自分の遺伝子を持ったものでなければ、その対象とはならない。こういうことになれば、それはその個体(その女性、あるいは夫婦)に属する私的な欲求ということにならないか? 念のため、「エゴ」だから悪いといっているのではない。これは、“遺伝子のたくらみ”かも知れないし、生物的にはごく通常の欲求でもあろう。
ただ、その個体の生物的欲求から発した不自然な所為を社会的に正当化せよ、制度として保障せよということになれば、いわば個の問題の社会化、一般化ということになるのだろう。ここが、この問題の本質、なにかまだるっこしさを感じとって当惑してしまうところである。
■またもや、パンドラの箱は開くか
こうしたことが仮に社会的に容認され、一般化されることになれば、当然、これが商業化、産業化され、さまざまな社会問題を生むことも懸念される。その他、いかな現代の高度な医療技術をもってもいまだ母体の生命の危険を伴う出産ということであれば、それを引き受ける第三者の人命、人権に関わる問題も、簡単には解消し得ないハードルであろう。
むろん、その第三者(いかなる動機か)の同意を得た上で行なわれることであろうが、第三者に極度な肉体的・精神的苦痛と生命の危険を与えてまで行なわれる個の欲求の貫徹、それに対する社会の関与というのは、果たしてどんなものであるのか。
さらには、その第三者が後に心変わりし、依頼者の女性(あるいは夫婦)との間で子どもの取り合いみたいなことが起こったら、あるいは、その子ども自身が物心ついて後にどちらを本物の母と思えるか、また、不幸にして死産となってしまった場合にどんなトラブルが起こるのか…、ますます暗澹とした疑問は募る。
クローンだの何だの、生命に対し大胆不敵なことをやってのける白人社会でも、こと代理出産に対する社会的合意は容易に得られていないようだ。あの米国ですら、米国ですら、国を挙げて肯定とはとても行かないのが現状のようである。
ひとたびパンドラの箱が開いたら、社会の様相、人間存在の意味も、根本から変わってしまうだろう。それは、「産業革命」などとは比べ物にならない、人類の大きなターニングポイントとなるかもしれない。
■それでも、胎児は語らない
もし仮に、この法制化(つまり、社会的に代理出産を正当化せよとの)要求の署名運動などが今後自分のところに回ってきたとしたら、そういうものに署名をする気は毛頭ない。さりとて、積極的に反対運動を展開しようなどというつもりも(少なくとも現時点で)ない。
テレビの討論中でくだんの吉村氏が穏やかに語った言葉、「普通の手術や医療行為なら本人の同意を得れば行なえますが、生殖医療の場合、これから生まれてくるお子さん自身の意思を聞くことは永遠にできないのですよ」。この一言は、あまりに重い。これがすべてだ。